岸和田城 桜 『紀州勢を追い払った蛸軍団の正体とは?』 

大阪府岸和田市 岸和田城
2018年4月初旬 撮影

岸和田城 桜2
 
岸和田城


①紀州征伐の拠点


だんじり祭で有名な岸和田の、もう一つのシンボル岸和田城。
1583年、豊臣秀吉は岸和田城に中村一氏を送り込み、ここを紀州征伐の拠点といたしました。
当時、紀州の根来衆、雑賀衆、粉河衆らは頻繁に一揆をおこすなどして豊臣政権と対立していたのです。

岸和田城 

岸和田城

②蛸伝説

1584年、秀吉が大阪から尾張に向かった隙をついて、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍が岸和田城を責めました。

このとき、大蛸に乗った法師が現れ、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍の兵士を次々になぎ倒したとか
大量の蛸が現れて根来衆、雑賀衆、粉河衆らを追い払ったなどという伝説があります。
また、中村一氏の夢枕の法師が現れ「私は地蔵菩薩の化身である」と名乗ったので、かつて戦乱から守るために堀に埋めた地蔵菩薩を掘り出して祭ったともいわれます。

この地蔵菩薩が岸和田市南町にある天性寺のご本尊とされます。

建武年間(1334~1336)岸和田城を津波が襲ったさいにも大蛸に乗った法師がこれを抑えて岸和田城を救ったといわれます。

岸和田城 桜 
岸和田城
 
③岸和田と蛸

岸和田城は海に近い場所に建っており、かつて二の丸付近まで海水が入り込んでいたと考えられています。
現在でも岸和田には漁師さんが大勢住んでいます。
そういったところから、このような伝説ができたのではないでしょうか。

④蛸はみほとけの化身

京都には蛸薬師もありますし、蛸はみほとけの化身として信仰されたようですね。

イカ地蔵とか、イカ薬師というのは聞いたことがありません。(あったら教えてね!)

蛸薬師 なで薬師

蛸薬師(永福寺)

なぜ蛸はみほとけの化身として信仰され、イカは信仰されなかったのでしょうか?
それは蛸には8本の足があるからではないかと私は考えています。

梅原猛さんは八は復活を表す数字であり、八角墳や八角堂は死者の復活を祈って作られたのではないかとおっしゃっています。
そういったところから八本足の蛸は信仰され、10本の足を持つイカは信仰されなかったのではないかと思います。
蟹満寺という寺もありますが、蟹も8本足ですよね♪

蟹満寺 寺号 

蟹満寺

詳しくはこちらの記事をお読みください → 金戒光明寺 紫陽花 『吉備観音はカニの観音?』 

⑤紀州勢を追い払った蛸軍団の正体とは?

雑賀衆は紀伊国北西部の地侍集団、粉河衆は粉河寺に関係する武力集団(でいいかな?)
根来衆は僧兵でした。

 岸和田城 桜 根来衆

岸和田城と根来衆(合成)

僧兵とは僧形の武者のことで、源義経に仕えた弁慶などが有名ですよね。

File:Kuniyoshi Utagawa, Heroes of china and Japan 3.jpg

歌川国芳作 義経 弁慶と五条の橋で戦ふ

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kuniyoshi_Utagawa,_Heroes_of_china_and_Japan_3.jpg?uselang=ja よりお借りしました。

僧兵は僧なので頭巾をとると↑スキンヘッドなわけです。

で、スキンヘッドのことをタコとか言ったりしますね。
私はスキンヘッドではないですが家人によく「この、ボケタコ!」なんぞと言われておりますが(汗)

岸和田城 桜 鉄砲隊 
岸和田城と鉄砲隊(合成)

蛸さんもみごとなスキンヘッドですね。

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊すればご利益を与えてくださる和魂に転じるなどと考えます。
紀州勢を追い払った蛸軍団とは、僧兵で構成された根来衆の怨霊が慰霊されて、神となったものを喩えたものではないでしょうか。

ちょっとややこしいのですが、つまり紀州勢を追い払うことができたのは、戦で死んだ紀州勢、なかでも僧兵で構成された根来衆のおかげ、ということなのかなと思うのです。

中村一氏は、かつて戦乱から守るために堀に埋めた地蔵菩薩を掘り出して祭ったそうですが、堀に埋めた地蔵菩薩とは堀に落ちていた根来衆の死体のことなのかも?

粉河寺 桜3

粉河寺

根来寺 桜 
根来寺



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[2018/04/05 12:24] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

平野神社 桜花祭 『蘇我蝦夷入鹿が信仰していた今木神』 

平野神社 桜祭神幸祭 鬼 


京都市北区 平野神社
桜花祭 4月10日

平野神社 桜祭神幸祭 男性   

①百済の神を祭る神社


平野神社の御祭神は今木神・久度神・古開神・比売神の4柱です。
もともとの御祭神は今木神・久度神・古開神の3柱でしたが、9世紀に比売神をあわせてまつるようになったそうです。

平野神社 桜祭神幸祭 男性 


今木神・久度神・古開神って聞いたことのない神様たちですね。どんな神様なのでしょうか?
実は今木神は聖明王、久度神は仇首(きゅうしゅ)王、古開王は沸流王のことなのだそうです。
聖明王とは百済第26代の王(? ~554年)、仇首王(?~- 234年)。
沸流王は百済の開祖・温祚王の兄です。異伝によれば、沸流王が百済の開祖であるともいいますが。

平野神社 桜祭神幸祭 お稚児さん


今木神はもともとは大和国で、桓武天皇生母の高野新笠の祖神として祀られていたみたいですね。
782年には平城京の田村後宮で祀られていたようです。
高野新笠は百済系氏族の和(やまと)氏の女性だったのですね~。
平安京遷都に伴ってこの今木神を大内裏からほど近い場所に祀ったのが平野神社の創建とされます。

平野神社 桜祭神幸祭 市松模様の着物


②今木の双墓

今木神と聞いて、私が頭に思い浮かべるのは今木の双墓です。
日本書紀によれば、蘇我蝦夷と入鹿は生前に今来の土地に双墓をつくったとあります。
奈良県御所市に今来という地名があり、大字古瀬小字ウエ山に隣り合って存在する水泥古墳と泥塚穴古墳が蝦夷、入鹿の双墓ではないかと言われていますが、時代があわないとの指摘もあります。

平野神社 桜祭神幸祭 鬼2 
③今木の双墓はどこにある?

黒岩重吾さんは蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は梅山古墳(現・欽明天皇陵)ではないかとしておられます。
現在の梅山古墳が前方後円墳になっているのは江戸時代に改修されたためで、それ以前の絵には双円墳が描かれているというのです。
黒岩さんが見た絵と同じかどうかわかりませんが、こちらのサイトの下に古い欽明天皇陵を描いた絵が掲載されています。 → 

平野神社 桜祭神幸祭 織姫


上から見下ろした絵なら古墳の形がはっきりわかりますが、横から見た絵なので古墳の形がはっきりわかりません。
双円墳のようにも、崩れた前方後円墳のようにも見えます。

平野神社 桜祭神幸祭 騎乗する武士


私は今木の双墓とは飛鳥にある鬼の俎・鬼の雪隠(1基の石室とする説もありますが、2基の石室とする説もあります。)もしくは高松塚古墳・キトラ古墳ではないかと考えていますが~

飛鳥の彼岸花 と 鬼の雪隠(せっちん)・鬼の俎(まないた) 『暴かれた古墳』  

平野神社 桜祭神幸祭 市松模様の着物2 

④蘇我蝦夷・入鹿は今木神(聖明王)を信仰していた?


それはさておき、なぜ蘇我蝦夷・入鹿はなぜ今木に双墓をつくったのでしょうか。
それは今木が今木神を祀る土地であったからではないかと思います。

平野神社 桜祭神幸祭 壺装束


蘇我氏は崇仏派でした。

そして仏教伝来は552年または538年、百済の聖明王が伝えたとされています。
崇物派の蘇我氏にとって日本に仏教を伝えた聖明王は聖人であったことでしょう。
今木神とは聖明王のことでしたね。

蘇我蝦夷・入鹿は崇拝する今木神のもとで永眠したいと考えたのではないでしょうか。

平野神社 桜祭神幸祭 駕籠 

平野神社 桜祭神幸祭 神輿
    

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[2018/04/03 11:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

2017年 4月の風景 まとめ 


法蔵寺 しだれ桜 『まともな死に方をした人がいない!』 

法蔵寺 しだれ桜 ライトアップ2


粉河寺 桜 『770年に目撃された光の正体とは』 

粉河寺

大石神社 しだれ桜 明治天皇はなぜ赤穂浪士を弔ったのか 

大石神社 しだれ桜3

長岳寺 桜 『長岳寺のそうめんと平城天皇』 

長岳寺 花筏

長岳寺 楼門 桜

東大寺 桜 『母観音と息子観音?』 

東大寺 お湯屋 桜

二月堂 裏参道 夜桜

帯解寺 桜 『惟喬親王の怨霊封じ込めの地蔵と小町之宮』 

帯解寺 門 桜

勧修寺 桜 『浅田真央さんは最後までミラクルだった!』 

勧修寺 観音堂 桜2

髄心院 桜 『わが御代に降るながめせしまに』 

髄心院 薬医門 桜2

地蔵院 五色散椿 千本釈迦堂 おかめ桜 『布団を被ったお地蔵さま』 

地蔵院 五色八重散椿2

千本釈迦堂 おかめ桜

上賀茂神社 斎王桜 風流桜 『なぜ賀茂神社には斎王がおかれたの?』 

上賀茂神社 斎王桜2 
勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

勝尾寺 多宝塔 桜

安倍文殊院 桜 『美しい国づくり内閣とは?』  
安倍文殊院 金閣浮御 桜

大野寺 しだれ桜 『弥勒菩薩と布袋・大黒天の共通点』 

大野寺 弥勒磨崖仏 しだれ桜


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[2018/04/01 16:32] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)

月ヶ瀬梅林 『烏梅の製法を伝えた姫若の正体とは?』 

月ヶ瀬湖 梅2

奈良市月ヶ瀬尾山 月ヶ瀬梅林
2018年3月下旬撮影

月ヶ瀬湖 梅  
①烏梅

月ヶ瀬梅林の梅は現在ではその多くが食用とされていますが、かつては梅の実を用いて烏梅(うばい)を作っていたそうです。
烏梅とは若い梅の実にススをまぶして燻製にし、乾燥させたものです。
烏梅は漢方薬の原料に用いたり、染色の触媒剤として用いられていました。
なんでも烏梅に含まれている青酸成分が紅花の染色にかかせなかいのだとか。

月ヶ瀬-民家 紅白の梅

また烏梅は口紅や頬紅を作る際にも用いられていました。

紅の溶液に烏梅を加えて一昼夜おいておくと、紅の色素が沈殿して泥土のようになります。
これを羽二重でこし、蛤の貝殻や皿にいれて乾燥させたものを艶紅といいます。
これを筆でといて口紅や頬紅として用いたそうですよ。

月ヶ瀬 しだれ梅

②姫若伝説

月ヶ瀬村には次のような伝説が伝えられています。

1331年、奈良の笠置にいた御醍醐天皇が、さらに落ち延びる時、天皇家の女官達がこの月ヶ瀬の地に逃げてきました。
その女官のひとり、園生姫が世話をしてくれたお礼にと烏梅の製法を村人に教えました。

園生姫は別名を姫若ともいうそうです。

月ヶ瀬-なまこ壁の家 紅梅

③長宗我部元親の幼少のころのニックネームは姫若子だった。

そこで「姫若」で検索してみると「姫若子」というのが出てきます。
「姫若子」とは長宗我部元親の幼少のころのニックネームです。
幼い頃、長宗我部元親は色が白く軟弱で、「姫若子」とからかわれていたそうです。

月ヶ瀬 赤い橋と梅

④女装して御所を脱出した後醍醐天皇

ここでピンときました!
それで「後醍醐天皇 女装」とキーワードを入れてググってみたのです。

すると、ウィキペディア・元弘の乱に次のように記されていました。

笠置山・赤坂城の戦い

元弘元年(1331年)、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。
六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。
後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤阪城で挙兵した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1より引用

月ヶ瀬-小松商店さん しだれ梅

月ヶ瀬村の伝説も1331年で、後醍醐天皇に関係する伝説でしたね・・・・。

烏梅の製法を月ヶ瀬村に伝えた園生姫(姫若)とは女装して御所を脱出した後醍醐天皇のことではないでしょうか?

月ヶ瀬湖 梅2

月ヶ瀬湖 夕景 



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[2018/03/29 18:48] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

なばなの里 河津桜 ライトアップ 『太陽神の子孫なのに天皇(北極星の神)とはこれいかに』 

 


三重県桑名市 なばなの里
3月中旬撮影

なばなの里 河津桜 ライトアップ2  
なばなの里 河津桜

なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』  のつづきでーす。

①二見が浦からダイヤモンド富士が見える。

なばなの里 河津桜 アイランド富士

なばなの里にある「アイランド富士」。※地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができます。
なばなの里は三重県なのに「アイランド富士」というアトラクションがあるのは、
二見ヶ浦から富士山が見えるからではないでしょうか?



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

②富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア=?

で、日本のあちこちに、北斗七星・カシオペア座・北極星になぞらえた場所があるみたいなんですよ。

下の図は夜空を左右反転させたものです。
夜空を左右反転させるのは、夜空をそのまま地上に投影したものを地上から見下ろすと、夜空を左右反転した形になるからです。

カシオペア 北斗七星 北極星

日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。





三上山は北斗七星を表すものだと思います。その理由については、長くなるので前回の記事を読んでくださいね。
なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 


日振島 三上山 鳴門の渦潮 

三上山は北斗七星、日振島はカシオペア座、鳴門の渦潮は北極星をあらわしているように思えるのですが、どうでしょう?


これと同様、富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思います。カシオペアはよくわからないんですが(汗)

伊勢神宮 二上山 日振島 地図  
奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~?

③太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに?

「伊勢神宮って天照大神を祀る神社やん。天照大神って太陽神やろ。伊勢神宮が北極星って変とちゃう」って?

いい質問です!(エラそう?)

天照大神は天皇家の祖神です。天照大神は太陽神です。それなのに、その子孫が天皇の称号を世襲しているっていうのも変ですよね。

天皇大帝とは北極星をつかさどる道教の最高神のことです。
太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに~~~?

なばなの里 河津桜 ライトアップ 
なばなの里 河津桜 

④サルタヒコ=ニギハヤヒ

こんな話があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)

なばなの里 河津桜 ライトアップ 
なばなの里 河津桜

サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」と記述があります。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀ではニギハヤヒとなっています。
サルタヒコとニギハヤヒは同一神なのではないでしょうか?

⑤天照大神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神?

また、この天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が本当の天照大神だとする説もあります。

神はその表れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の三つにわけられるとされます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
私は御霊とは男女双体ではないかと思います。

つまり、サルタヒコ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とアメノウズメの男女双体の神が天照大神ではないかと思うのです。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神像だともいわれていますよ。

河治温泉 道祖神 
いや、太陽神=天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=サルタヒコで
アメノウズメは月の神だと思います。

陰陽道では太陽や男は陽、月や女性は陰とされているからです。

⑥道祖神=女媧&伏義


道祖神は中国の女媧&伏義と習合されていると思います。

Anonymous-Fuxi and Nüwa3

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



上は女媧&伏義を描いたものですが、絵の上部中央に太陽が、下部中央に月が描かれています。

なばなの里-光のトンネル2

⑦伏義=太陽、女媧=月

 http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1099.htm

↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。

八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。

この絵を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われます。
いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神というべきかもしれません。

太陽は伏義を、月は女媧をあらわしていると思います。

⑧太陽と月が結婚すると星が生まれる。

そして、日食は太陽と月が和合することだといってもいいでしょう。



日食が太陽と月が重なっておきる現象だという説は古くから唱えられていました。
そして、日食になると夜のように暗くなり、星が見えてきます。

つまり、太陽と月が結婚すると星が生まれるというわけです。
上の女媧&伏義の絵にもたくさん星が描かれていますね。

伊勢神宮に祀られているのはサルタヒコ(太陽神)とアメノウズメ(月神)の男女双体の神=星の神だと考えることができるのではないでしょうか。


なばなの里-光のトンネル



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[2018/03/27 19:27] 三重県 | トラックバック(-) | コメント(-)

なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 

三重県桑名市 なばなの里
2018年3月中旬 撮影


なばなの里 しだれ梅とアイランド富士 
なばなの里 しだれ梅とアイランド富士

①三重県なのになんでアイランド富士?

なばなの里に空飛ぶ富士山が登場!

実はこれアイランド富士といいまして、地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができるというアトラクションなのです。

「三重県なのになんで富士山?関東地方ならわかるけど、三重と富士山って随分離れてるやん」とか思いませんか。

なばなの里 河津桜 
なばなの里 河津桜

実は三重県の二見ヶ浦から富士山が見えるそうなんですよ。
しかも夏至の日には朝日が富士山から昇ってくるんだとか。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

②伊勢神宮が伊勢につくられ田理由は、二見ヶ浦から富士山がみえるから?

東京の足立の花火を見にいったとき、足立の花火 『道祖神の招きを受けて旅立った松尾芭蕉』 
隣に居合わせたカメラマンさんとお話しをしました。
そのカメラマンさんは民俗学にも詳しくて、こんなことを教えてくださったのです。

「夏至の日に二見ヶ浦からダイヤモンド富士が見えるので、二見ヶ浦から近い伊勢に天照大神を祀る伊勢神宮がつくられたんですよ~♪」

おおーーーっ、おっしゃるとおりかも!
そして、そして、それは伊勢神宮を北極星、富士山を北斗七星、どこかの場所をカシオペア座とする呪術なのではないでしょうか?

なばなのさと みつまたとかわづさくら 

なばなの里 河津桜とミツマタ

③日振島=カシオペア座=藤原純友、三上山=北斗七星=平将門

詳しく説明しますね♪

日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。




カシオペア座


この日振島は平安時代に藤原純友の乱をおこした藤原純友の本拠地だったところです。

藤原純友の乱と同時期に平将門の乱がおこっています。
加門七海さんが関東の平将門関連史跡をつなぐと北斗七星の形になると指摘されています。




平将門は北斗七星の神だといってもいいでしょう。
すると藤原純友はカシオペア座の神と言えると思います。

で、琵琶湖のほとりにある三上山にすむ大ムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。
藤原秀郷は平将門の乱を鎮圧した人なんです。
三上山にすむ大ムカデとは平将門の比喩だと考えられますね。
また日振島は藤原純友の比喩(日振島は藤原純友の本拠地だった)、三上山は平将門の比喩だと考えられます。

そして日振島はカシオペア座、三上山は北斗七星になぞらえられているのではないかと思えます。

なばなの里 河津桜2 
なばなの里 河津桜


④変形された北斗七星

日振島はカシオペア座の形をしていますが、三上山は近江富士とも呼ばれ、台形の形をしていて北斗七星の形をしていません。

烏丸半島 蓮

三上山

大阪府交野市の星田妙見宮に北斗七星の神々が祀られていますが、やはり北斗七星の配置になっていません。

星田妙見宮 境内図


星田妙見宮 境内図 (文・禄・巨・貧・破・武・廉とあるのが北斗七星の神だが北斗七星の形に配置されていない。)


星田妙見宮 旗のデザイン

上は星田妙見宮の旗に描かれえいた北方をつかさどるとされる聖獣・玄武(亀に蛇がまきついた姿をしている。)です。

その玄武の上に北斗七星を渦巻き状に変形させたのようなものが描かれています。
亀は北極星、亀にまきつく蛇は北斗七星をあらわしているのではないでしょうか。
北斗七星は北極星の周囲を回るので、このような形に描かれているのではないかと思います。

なばなの里 河津桜3 
なばなの里 河津桜

⑤三上山=北極星、三上山に巻き付くムカデ=北斗七星

すると、本来、三上山は北極星、三上山に巻き付くムカデは北斗七星をあらわしていたのではないかと思われます。
しかし、日振島をカシオペア座になぞらえた場合、三上山を北極星&北斗七星になぞらえると、おかしなことになってしまいます。
というのは、カシオペア座は北極星をはさんで北斗七星と対面するような位置にあり、カシオペア座もまた北極星のまわりをまわっているからです。

北斗七星 カシオペア座

⑥鳴門の渦潮=北極星

三上山は本来ならば北極星と北斗七星をあらわすものだと考えられますが、三上山は北斗七星をあらわすものとしましょう。
そして三上山=北斗七星と日振島=カシオペア座の中間に北極星になぞらえるものを探してみました。

そうしたところ、北極星にぴったりなものが見つかりました。鳴門の渦潮です。

すべての星は北極星を中心に左回りに回ります。それはあたかも北極星に宇宙を回転させるパワーがあるかのようですね。

日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしていますから、北極星の回転方向も左右反転させなければなりません。
ということは、北極星は右回りに回転しているということになりますが、鳴門の渦潮はほとんど右回り回転だそうです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/mirror/uzumaki.htm
(私が見に行ったときは左回りの渦潮もたくさん発生していましたが)

鳴門 渦潮2

カシオペア 北斗七星 北極星

日振島 三上山 鳴門の渦潮 

⑦他にもある、カシオペア座・北斗七星・北極星になぞらえられた場所


北斗七星。北極星。カシオペア座になぞられているのは、日振島・鳴門の渦潮・三上山だけでなく、他の組み合わせもありそうです。

カシオペア座北斗七星北極星参照記事
日振島三上山(近江富士)鳴門の渦潮カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑮日振島・鳴門の渦潮・三上山に仕掛けられた壮大な呪術 
由岐神社鞍馬七福神いのちの像カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑪ いのちの塔は北極星をあらわす? 
女峰山男体山太郎山カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑯ 日光にもあったカシオペアと北斗七星、北極星 
筑波山富士山江戸カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑰ 『江戸の町は北極星になぞらえて造られた?』 
龍安寺石庭7つの陵蹲(吾唯足知)カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑲ 龍安寺の蹲(つくばい) 「吾唯足知」は宇宙を回転させる呪術だった? 
二上山三輪山藤原宮跡カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑳ 『二上山はカシオペア座で三輪山は北斗七星?』 


なばなの里 さんしゅゆ 
なばなの里 さんしゅゆ

⑧富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア座は?

下の地図を見てください。

富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思うんですが、カシオペアは・・・・

伊勢神宮 二上山 日振島 地図  
奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~?
もうちょっと考えてみます~(汗)

なばなのさと アイランド富士より 河津桜 
なばなの里 河津桜


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[2018/03/24 23:12] 三重県 | トラックバック(-) | コメント(-)

梅宮大社 梅 『橘嘉智子はなぜ仏教に帰依したのか』 

京都市右京区 梅宮大社
2018年3月中旬撮影

梅宮大社 門 紅白の梅


①酒解神=オオヤマツミ、酒解子神=コノハナノサクヤヒメ、大若子神=ニニギ、小若子神=ホオリ

梅宮大社の本殿の御祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神の四柱です。


酒解神とはオオヤマツミの別名です。
酒解子神はコノハナノサクヤヒメの別名で、酒解神の御子神。
大若子神は天照大神の孫・ニニギの別名で酒解子神の夫神。
ニニギは天照大神の天孫で葦原中国へ天下って国を治めた神。葦原中国のコノハナノサクヤヒメと結婚しました。
小若子神はホオリの別名で、酒解子神(コノハナサクヤヒメ)と大若子神(ニニギ)の御子神です。
ということは小若小神(ホオリ)は酒解神(オオヤマツミ)の孫ということですね。

言葉で説明するより図を見てもらったほうがわかりやすいと思います。

酒解神(オオヤマツミ)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)※酒解神(オオヤマツミ)の娘
                  |
                  |ーーー小若子神(ホオリ)
                  |   ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)・父・大若子神(ニニギ)
                  | 
天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ)※天照大神の孫  

梅宮大社 紅白の梅                

酒解神は初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神です。
若子(ワクコ)は発酵を意味する言葉なので、大若子神・小若子神も酒の神を意味していると考えられています。

ホオリは有名な海幸彦・山幸彦の物語に登場する山幸彦のことで、初代神武天皇の祖父にあたります。

酒解神(酒造の祖神)=オオヤマツミ
酒解子神(酒解神の御子神)=コノハナノサクヤヒメ(ニニギの妻)
大若子神(酒解子神の夫神)=ニニギ(天照大神の孫で葦原中国へ天下って治めた。)
小若子神(酒解子神と大若子神の御子神・酒解神の孫)=ホオリ(神武天皇の祖父)

梅宮大社 庭園 梅


②酒解神=橘清友、酒解子神=橘嘉智子、大若子神=嵯峨天皇、小若子神=仁明天皇?

そして、相殿として、嵯峨天皇とその皇后の橘嘉智子、嵯峨天皇と橘嘉智子の間に生まれた仁明天皇、檀林皇后の父・橘清友を御祭しています。

嵯峨天皇・・第52代天皇
橘嘉智子・・嵯峨天皇の皇后
仁明天皇・・嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた皇子。第54代天皇
橘清友・・・橘嘉智子の父親


相殿とは同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祭ることをいいます。

これは、酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神と、嵯峨天皇・橘嘉智子・仁明天皇・橘清友が同一視されたということではないかと思うのです。

酒解神=オオヤマツミ=橘清友
酒解子神=コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子
大若子神=ニニギ=嵯峨天皇
小若子神=ホオリ=仁明天皇


酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子)※酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)の娘
                  |
                  |ーーー小若子神(ホオリ=仁明天皇)
                  |   ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子
                       父・大若子神(ニニギ=嵯峨天皇)
                  | 
天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ=嵯峨天皇)※天照大神の孫 

梅宮大社 椿

③右大臣・橘諸兄失脚、橘奈良麻呂拷問死。

本殿の向かって右の若宮社には橘諸兄が、本殿の向かって左の護王社にはは橘氏公(ウジギミ)と橘逸勢が祭られています。

若宮社・・・橘諸兄
護王社・・・橘氏公・橘逸勢


若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といいました。
父親は美努王、母親は橘美千代です。
736年、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出ます。
葛城王の申し出は許可され、葛城王はこれ以後、橘諸兄と称しました。

橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいます。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なんですね~。

737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡しました。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になりました。
 
ところが755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をしました。
聖武太上天皇は問題視しなかったそうですが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡しています。

このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われます。


758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画しましたが密告によって捕らえられました。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡しています。
続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられています。

梅宮大社 白梅

④子孫は繁栄したが、早死にした橘清友


梅宮大社の御祭神の橘清友は、この奈良麻呂の子です。
清友は777年に渤海大使都蒙を接待したとき、
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡しました。

子孫が繁栄するというもうひとつの予言もあたったといえるかもしれません。

娘の橘嘉智子嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となりました。

梅宮大社 猫2匹

⑤承和の変

橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけました。
833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位します。
そして仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立ちました。

このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつありました。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいました。
淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請していますが、それはおそらく良房を恐れてのことでしょう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていました。

840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされてしまいます。

伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画を練りました。
ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談しますが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告してしまいます。
驚いた橘嘉智子はこれを藤原良房に相談したのです。

嵯峨上皇が崩御した2日後、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕しました。
恒貞親王は廃太子。
橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没しました。

これを『承和の変』といいます。

梅宮大社 黒猫

⑥橘氏公

橘氏公は橘嘉智子の兄で、橘嘉智子の立后を受けて急速な昇進を遂げています。
833年に正良親王が仁明天皇として即位後は、844年に右大将となり、845年に従二位となっていますが、847年に66歳で没しました。

橘嘉智子以降、橘氏より立后する女性は出ず、橘氏の男子からも藤原氏をしのぐような人物は登場しませんでした。

●自らの罪におびえた橘嘉智子

従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていましたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎませんでした。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられています。

『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。

橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのでしょう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかもそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王・従兄弟の橘逸勢を犠牲にしています。
橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だった可能性が高いのです。

橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺(現在の天竜寺付近にあったとされる。)を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされます。

私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思います。

梅宮大社 紅梅 


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[2018/03/20 23:54] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

北野天満宮 梅 『京都はお土居に囲まれた城塞都市だった?』 

京都市上京区 北野天満宮
2018年3月中旬 撮影

北野天満宮 お土居 梅 
御土居

①御土居

御土居は豊臣秀吉が作った土塁で、京都を囲むように作られました。
江戸時代になって寺社・公家に払い下げられ、その多くは取り壊されました。
しかし、北野天満宮・蘆山寺境内など数か所に遺構が残されています。

北野天満宮 本殿 梅 
本殿

②土塁を作った目的

秀吉が土塁を作った目的は複数あると考えられています。

ひとつは堤防としての役割です。
お土居は鴨川に沿って南北に長く伸びていますが、それは鴨川の氾濫から町を守るためだと考えられています。

洛中の範囲を明らかにするためだとする説もあります。

天正18年(1590年)ごろ、秀吉は細川幽斎に意見を聞くなど都の境界を定め、惣土堤を築かせたというようなことが、 『室町殿日記』に記されているようですね。

また防壁として作られたとする説もあります。

 北野天満宮 宝物殿 梅

宝物殿

③御土居=防壁説の疑問点

ただし防壁としてお土居がつくられたとする説には、いくつかの疑問点が指摘されています。

a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。
b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。
c.防壁上に櫓がない。
d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。
e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。

北野天満宮 社務所 梅 
社務所
 
④京の町は御土居に囲まれた城塞都市だった?

1585年、秀吉は関白となり、政庁兼邸宅として聚楽第を建てました。
聚楽第が完成したのは1587年です。




「京都図屏風」から、本丸の位置は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通にあったと推定されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:OdoiRemains.png
お土居の範囲はリンク先をご覧ください。

聚楽第は二条城の北、京都御苑の西ですから、当然お土居の中にあるわけです。
いや、1587年に聚楽第が完成し、その後1590年ごろに御土居がつくられたと言ったほうがいいですね。
お土居は聚楽第の防壁として作られた可能性があると思います。

つまり、京の都は聚楽第を中心とした城郭都市であったのではないかということです。

長五郎餅本舗さん 梅 
長五郎餅本舗さん

⑤農地までを取り囲む城塞都市?

御土居を防壁とする説の疑問点をひとつひとつ見てみましょう。

a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。

御土居の西部や北部は、御土居が作られた1590年ごろからずっと農地だったということでしょうか。

秀吉は豪快で派手好きな性格であったといわれますね。
1587年の北野大茶湯では「茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず参加すること」とお触れを出し、1000人もの人が参加しています。
2日目には肥後国一揆がおこったためか、突然中止になってしまうのですが~。
(思ったほど参加者が集まらなかったので、秀吉が機嫌を損ねたとする説もあります。)

北野天満宮 しだれ梅

このような秀吉の性格を考えると、農地まで防壁を築くということはありえそうに思えます。
籠城することになった場合、食料や水を確保しておくことがかかせません。
農地まで防壁で囲っておけば、安心できると秀吉は考えたりしなかったかな?

北野天満宮 梅

⑥紙屋川は排水システム?

b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。

紙屋川は御土居の西を流れる川で、この川の東に御土居を設け、京の町を囲っていたようです。
つまり紙屋川を堀がわりに利用していたのですね。
紙屋川の大部分は御土居の外側を流れていたが、御土居の内側を流れている個所もあったということだと思います。
ということは、御土居の下が暗渠のようになっている個所があったということではないでしょうか。

御土居は防壁であると同時に、鴨川の氾濫から町をまもるためのものでもあったでしょう。
それでも鴨川の水が御土居を超えてきたら?
京の町は御土居に囲まれているので、町にたまってしまいます。
町には水抜きのための排水システムが必要です。
紙屋川は京の町の排水口として、御土居の内側に作られたのかも?


北野天満宮 梅林 
梅園

⑦秀吉は途中で町つくりを放棄した?

c.防壁上に作られる櫓がない。
d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。

聚楽第は1591年に秀吉の甥・秀次の邸宅となり、1595年には秀吉は秀次を切腹させて聚楽第を破却させています。

一方、お土居を作り始めたのは1590年ごろなので、当初は櫓など造るつもりだったのを、途中で「聚楽第も潰すし、お土居ももうどうでもいいよ!」と放置されたとかいうようなことはないですかね?

e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。

これはお手上げです。ぜんぜんわかりません。皆さまはどうお考えになりますか?

北野天満宮 梅昆布茶 と お菓子 

梅園では梅昆布茶とお菓子をいただけますよ♪



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[2018/03/15 22:26] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

意地の悪い観光地がある。(感じのいいところもたくさんあるけど) 

薔薇とラベンダー


えー、こういうことはテレビ・新聞・雑誌などでは絶対言わないので、私が言っておこうと思います。

これからお花見などで大勢の人があちこちの観光地に行くと思うので、その前に、観光地の方々は「どうすればお互い気分よく過ごせるのか」について考えていただきたいと思うのです。

観光地が三脚禁止にしたり、撮影禁止にするのは自由です。
それをとやかくいうつもりはありません。

しかし「三脚禁止」「撮影禁止」などの張り紙をするか、入場料を払う際に「三脚禁止(撮影禁止)ですがよろしいですか」と一言声をかけるくらいのことはしていただきたいです。

三脚使える観光地は多いですし、仏像などの美術品の撮影okという観光地もあるので、禁止なら禁止と言ってもらわないとわからないですよ。

八重咲のチューリップ

 

先日ある神社に行き、お金を払って庭園に入らせてもらいました。
受付には「三脚禁止」の張り紙もなく、手にはカメラをとりつけた三脚を持った状態で入園料を支払いましたが、何の注意もされませんでした。

また、半年ほど前にも入場料を払って庭園に入らせてもらったことがあり、その際、受付で確認したところ三脚使用可との返事をもらっていました。
それでここは三脚使用可なんだと思っていたのです。
堂々と三脚をたてて撮影していました。

そこへひとりの神職さんが駆け寄ってきて「三脚禁止です。すぐにしまってください!」と強い口調でおっしゃっいました。

「三脚にカメラを取り付けた状態で受付をすませたけど、受付では何の注意もされなかった。」と言ったのですが
受付に注意をしにいこうともされませんでした。

「三脚禁止」と1枚張り紙をしておくだけで、お互いに気分よくすごせるのに、意地悪な神社だなあ、と思いました。
もしかして観光客をどなりつけたくてわざと張り紙していないんじゃないの?


武田邦彦さんが、昔会社勤めをされていたとき、出張費の請求で少し金額を間違えたそうなんです。
すると経理から交通費がまちがっていると指摘を受けたのが意地悪だと感じたとおっしゃっていました。

経理のほうで確認の計算ができるなら、面倒な交通費の請求などさせずに、経理のほうで交通費を計算して建て替え分を支払ってくれればいいのに、というのです。
確かに合理的な考え方だと思います。

今回のケースは、この武田邦彦さんのおっしゃるケースに少し似ていると思いました。

薔薇




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[2018/03/13 09:50] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

逢合橋 梅 天の川 夕景 『かささぎが架ける橋は白黒モノトーン?大伴黒主の正体』 

大阪府交野市 逢合橋 機物神社
大阪府枚方市 中山観音寺跡(観音山公園)

天の川 夕景  
天の川

①交野が原を流れる天の川

大阪府枚方市・交野市のあたりは古には交野ケ原とよばれていました。
平安時代には在原業平が惟喬(これたか)親王のお供をして交野が原をおとずれ、こんな歌を詠んでいます。

狩り暮らし たなばたつめに 宿からん 天の川原に  われは来にけり
(一日中狩をして日が暮れてしまったので、棚機津女に宿を借りましょう。天の川原に私たちはやってきたのですから。)


在原業平は「天の川原」と言っていますが、枚方市・交野市を天の川(天野川)という川が流れているのです。

交野 梅 
交野市 逢合橋付近

②牽牛=アルタイル、織姫=ベガ。かささぎが掛ける橋は白鳥座?

1年に1度、七夕(旧暦7月7日)の日にかささぎが天の川に橋をかけ、織姫と牽牛がこの橋を渡って逢瀬を楽しむという伝説がありますね。

観音山公園付近 石碑 
上は枚方市の中山観音寺跡近くに置かれてあった説明版で、夏の北の夜空を描いたものです。
薄いグレー色の部分は天の川で、天の川を挟んでわし座のアルタイルと琴座のベガが対面していますね。
アルタイルは別名を彦星または牽牛星、ベガは別名を織女星とも呼ばれています。
みなさんご存じのように、天の川伝説に登場する牽牛とはアルタイルを擬人化したもの、織姫とはベガを擬人化したものです。

そして天の川の中に白鳥座があります。
古の人はこの白鳥座をかささぎに見立てて上のような伝説を創作したのかも?

逢合橋付近 梅 
交野市 逢合橋付近

③機物神社=織女星、中山観音寺=牽牛星

交野ケ原には天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)と機物(はたもの)神社があり、
中山観音寺跡は牽牛星、機物神社は織女星になぞらえられていると言われています。
昔の人は交野ケ原に天上の世界をなぞらえたのですね。

七夕伝説は中国から日本に伝わったものですが、交野ケ原は日本における七夕伝説発祥の地だともいわれていますよ。
(ほかにも福島県宗像市大島など、七夕伝説発祥の地を称する場所は数か所あります。)


郡津駅の西側を南北に流れる川が天野川です。

上の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡(観音山公園)があります。
5kmほど離れているかな?


機物神社 七夕飾り 
機物神社

観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 

また牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もあります。
合逢橋はかささぎがかけた橋(天の川の中にある白鳥座?)になぞらえられているのでしょう。

合逢橋って、そんなロマンチックな伝説がある橋なのに、なんの変哲もない普通の橋なんですよ~。
でも見事な梅の花が咲いていたので、この日の合逢橋はよかったです。  

逢合橋-梅                

合逢橋

④七夕は和魂と荒魂を和合させて御霊にする行事だった?

旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事で、7月7日の七夕はお盆のいりの行事でした。

なぜ牽牛と織姫が逢瀬を楽しむというロマンチックな伝説に基づく行事がお盆の行事なのでしょうか?
私の考えを書きます。

神は表れ方で御魂(神の本質)、和魂(神の和やかな側面)、荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられるといいます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
すると、御魂は男女双体になると思います。

御魂(神の本質)・・・・・男女双体?
和魂(神の和やかな側面)・・・女神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神


お盆には悪い霊(荒魂)も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神(和魂)と和合させる必要があると考えられ、
それでお盆の入りの行事として七夕があるのではないでしょうか?

枚方パーク 夕景

天の川より枚方パーク観覧車を望む。

⑤かささぎが渡す橋は太極図のような白黒の橋

大友家持がこんな歌を詠んでいますよ。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持
(年に一度、天の川に鵲が橋をかけ、その橋を渡って牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという。その橋のようにみえる宮中の階段に白い霜がおりているところを見ると、もうすっかり夜がふけてしまった。)

「霜の 白き」は天上に輝く星が白いのを霜に喩えたとする説もありますが
宮中の階段に霜がおりているのを天の川にかかる橋に見立てたとする説もあります。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

上の動画を見ればわかるとおり、鵲はくっきりした白黒のコントラストを持つ鳥であり、太極図を思わせます。

File:Yin and Yang.svg

太極図

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg?uselang=ja) よりお借りしました。
ありがとうございます。

太極図とは「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」という道鏡の考え方をあらわすもので
白は陽、黒は陰とされます。

かささぎは陰陽または太極図を象徴する鳥であると考えられていたのではないでしょうか。

男は陽、女は陰とされるので、男が白=荒魂で、女が黒=和魂となると思います。
そう考えると、太極図は織姫&牽牛を図案化したものだと言ってもいいかも?

⑥白は百引く一=九十九で妖怪、黒は田土、、、、で田の神?


鵲の白黒のコントラストはこの太極図のほか、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉・黒式尉を、思い出させます。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉


奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社では白式尉は志貴皇子で、天皇に近い人であったと伝わっています。左は左大臣、右は右大臣です。

黒式尉は鈴をふり、田植や種まきの所作をします。

さきほど、男神=荒魂、女神=和魂だとする説があるといいましたが、
白=荒霊、黒=和魂とする考え方もあったのではないでしょうか。

白は百-一=白となるので、九十九をあらわします。
九十九はつくもとも読み、九十九神(つくもがみ/付喪神とも)という器物につく妖怪がいます。

黒は分解すると「田」「土」「、、、、」なので白が黒に変化すると、付喪神は田起こしの神、種まき(、、、、は種のように見えるので)の神ということだったりして?

⑦大伴の黒主が歌は、古の猿丸太夫の次なり。

古今和歌集真名序に次のように記されています。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。  (読み下し文)

大友黒主とは六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)の一人である。

 加茂船屋の雛祭 六歌仙の屏風と雛人形

加茂船屋 六歌仙を描いた屏風
 

古今集真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
これはどういう意味なのでしょうか?

鎌倉時代の和歌の第一人者である藤原定家ならば『古の猿丸大夫の次なり』の意味を知っているかもしれない。
そう思って定家が撰んだ百人一首を調べてみました。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において猿丸太夫の次大友黒主の正体を明らかにしていたりしないかな?
つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと考えたわけです。

百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!

大友黒主は大伴黒主と記されることもあります。

また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいます。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)



白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるというのです。
大伴黒主、大伴家持は同一人物なのではないでしょうか? 

 
祇園祭 黒主山 御神体

祇園祭 黒主山ご神体 大伴黒主像


⑧掘り返された死体


大伴黒主は藤原種次暗殺事件に関与したとして、このときすでに死亡して埋葬されていたのですが、死体が掘り返されて流罪となっています。
掘り返された死体は死後時間が経過していたので、腐って蛆がわいたりしていたかも。

真名書に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるのはこのことを言っているのではないでしょうか。
『鄙し』という言葉の意味がよくわかりませんが『鄙』とは『田舎』とか『支配の及ばない未開地に住む人々』という意味なので『死体がが風葬された田舎の人ような状態になっていた』という意味なのかもしれません。

黒主山 宵山 
祇園祭 宵山 黒主山

⑨黒=田+土+、、、、(種まき?)=田夫

田夫の 花の前に息めるがごとし。』とあるのは、翁舞の白式尉が黒式尉に転じるように、大友家持という白い神が、黒い神になってしまった、という意味かも、と思ったりします。

黒い神とは、田夫とは田の神・・・黒を分解して、田・土・、、、、(種まき?)の神ということです。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2 
祇園祭 黒主山  

⑩白い神から黒い神に転じた大伴家持

家持の歌を私流に現代語訳してみます。

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける/大伴家持

まるで太極図のように見える鵲。
また鵲は白い神(荒霊)と黒い神(和霊)が和合しているかのようにも見える。
その鵲が天の川に橋をかけ、年に一度牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ。

男神(牽牛)は荒魂、女神(織姫)は和魂であり、男神と女神を和合させることによって、御霊とするのが七夕の行事である。

その天の川に鵲がかける橋のように見える宮中の階段に霜が白く輝いている。
霜は日本書紀のトガノの鹿を思わせる。
鹿は全身に霜が振る夢を見るが、霜だと思ったのは実は塩で、鹿は殺されて塩漬けにされているのだった。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあった。
鹿は謀反人の喩えである。
藤原種継暗殺事件の首謀者だと考えられている私もまた謀反人である。

宮中に降りた霜がこんなにも白く見えているということは、私はすでに死んで夜の世界にいるということなのだろう。
そして私は鵲に似た太極図があらわすように、陽が極まって陰となり、白い神(荒魂)から黒い神(和魂)へと変わっていくのだ。


わずか31文字の中に、太極図、天の川伝説、トガノの鹿の伝説なども想像させ、実に味わい深い歌だと思うんですが、どうでしょう?

もちろん死んだ人が歌を詠むことはできません。
大伴家持は何の気なしにこの歌を詠んだのを、古の人がこの歌は大伴家持はこんな歌を詠んだので歌の言霊の力で、歌を実現させてしまったと考えたのかもしれませんね。

天の川より枚方パークをのぞむ 
天の川より枚方パークをのぞむ



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[2018/03/12 11:12] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)