法住寺 梅 『日本国第一の大天狗』 

京都市東山区 法住寺
2017年2月中旬撮影


法住寺 梅 
竜宮城の入り口?
いえいえ、法住寺の竜宮門です。

①後白河上皇の御所・法住寺殿

法住寺は988年、藤原為光が創建したお寺です。
1161年、法住寺を中心に後白河上皇の御所が作られ、法住寺殿と呼ばれました。

法住寺殿は広大な敷地を有し、南殿、西殿、北殿の三御所、東小御堂、不動堂、千手堂などのお堂が立ち並んでいたそうです。

現在の法住寺の隣には三十三間堂がありますが、これも法住寺殿の仏堂でした。

三十三間堂 通し矢 

三十三間堂 通し矢

②日本国第一の大天狗

源頼朝が後白河のことを『日本国第一の大天狗』と悪口を言っています。
なぜ頼朝は後白河を『日本国第一の大天狗』と言ったのでしょうか。

②今様を歌いすぎ、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言われる。


1127年、後白河は鳥羽上皇の第四皇子として生まれました。
1141年、同母兄の崇徳が鳥羽上皇の譲位を受けて即位します。

第四皇子の後白河は皇位継承とは無縁であったためか、たいへんな遊び人であったようですね。
特に今様が好きだったようです。
今様を現代語訳すると「現代流行歌」となります。
とにかく歌ばかり歌っていて、声が出なくなったりはしょっちゅうだったみたいですよ。

現代にもこんな人、いますね。(ハーイ!)

後白河のあまりの「今様」好きに父親の鳥羽上皇は「即位の器量ではない」と言ったとか。(愚管抄)
同母兄の崇徳は後白河を「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」とけちょんけちょんにけなしています。(平治物語)

法住寺 梅2 
③保元の乱

後白河の兄・崇徳天皇は鳥羽上皇に命じられて、1141年に異母弟(母親は藤原得子)の近衛天皇に譲位します。
このとき、譲位の宣命は「近衛は崇徳の皇太子」となるはずだったのが、「皇太弟」となっていました。
これはとても重大なことでした。
近衛が崇徳の皇太子であれば、崇徳は院政を行うことができたのですが、皇太弟では院政を行うことができなかったのです。

なぜこんなことになったのかというと、どうやら崇徳は父親の鳥羽に嫌われていたみたいなんですね。

崇徳は鳥羽の本当の子供ではなく、鳥羽の祖父の白河法皇の子だったようです。
もちろん系図では鳥羽の子とされていますが。

白河法皇は養女にしていた藤原璋子を、孫の鳥羽に入内させたのですが
このとき璋子は白河法皇の子を宿していた。それが崇徳だと言われています。
鳥羽は崇徳のことを、「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたそうです。
崇徳、かわいそう!平安時代の宮中って乱れてますね~。

1155年、近衛天皇は16歳で崩御してしまいます。
このとき崇徳はもう一度自分が天皇になるか、自分の息子の重仁親王の即位を期待したはずです。
ところが、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言わしめたできそこないの弟・後白河が即位してしまったのです。

後白河が即位したのは、後白河の息子の二条が藤原得子の養子となっていたからです。
鳥羽上皇は璋子よりも得子のほうを愛していたので、得子の養子の二条を天皇にしたかったんでしょうね。

ですが、このときまだ二条は3歳で幼かったのです。
それで父親の後白河が中継ぎの天皇として即位したわけです。

崇徳はこれに堪忍袋を切らし、後白河に対して挙兵します。(保元の乱)
結果、崇徳は敗れて讃岐へ流罪となりました。

法住寺 梅 

↑ こちらの写真は2016年3月初旬撮影です。(先日はまだ全然咲いていませんでした。)

④崇徳、生きながら天狗になる。

讃岐に流罪となった崇徳は反省して、五部大乗経を写本して、これを後白河に送りました。
ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃないの?」と疑ってこれを讃岐に送り返してしまいます。

崇徳激怒!

崇徳は舌を噛み切り、写本に血で、次のように書き込んだそうです。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

私は日本国の大魔縁(天狗道に堕ちた者?)となって、天皇を平民にし、平民を天皇にしてやる!
みたいな意味でしょうか。

そののち、平治の乱がおこって平家が権力を掌握し、さらには源頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷の権力は低下していくことになるので
崇徳の言葉どおりになってしまったといえるかも・・・。

そして崇徳は髪を伸ばし、爪も切らず、生きながら天狗になったと保元物語には記されています。

法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗 
法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗

⑤後白河は崇徳以上の天狗だった。

以上のことをふまえて源頼朝が後白河に対して「日本国第一の大天狗」と言ったことを考えてみるとオモシロイですね。
(「日本国第一の大天狗」とは高階泰経に対して言った言葉ではないかとする説もありますが)

後白河の兄、崇徳は生きながら天狗になった。
しかし後白河は崇徳以上の大天狗である、という意味でしょう。

頼朝が後白河を大天狗と評したのは、後白河が人を欺くはかりごとばかりしていた、という意味だと考えられているようですが
これについてはもっとじっくりと考えてみたいと思います。


後白河法皇法住寺陵 
法住寺の奥には後白河上皇の陵がありますよ。






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[2017/02/13 13:48] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大覚寺 大覚寺狂言 『閻魔大王と地蔵菩薩は同体』 


兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺狂言・・・2月3日


①大覚寺狂言

京都などに民俗芸能である大念仏狂言が伝えられています。
大念仏狂言とは融通念仏(大念仏)の中興者・円覚上人の念仏の教えを無言劇(パントマイム劇)としたものです。
兵庫県尼崎市の大覚寺に伝わる大覚寺狂言も、大念仏狂言のひとつなのだと思います。

②閻魔庁

多くの演目が奉納されましたが、今日はその中から『閻魔庁』をご紹介します。


大覚寺狂言 閻魔庁3 
鬼たちは閻魔大王に命じられて・・・・・・

大覚寺狂言 閻魔庁6

幽霊さんをいたぶります。

大覚寺狂言 閻魔庁7




大覚寺狂言 閻魔庁
mind-travel

ぎゃーーーーっ!

大覚寺狂言 閻魔庁5 

幽霊さんはさらに釜ゆでにされて鬼たちに食べられてしまいます。

大覚寺狂言 閻魔庁2 
お地蔵様があらわれて錫杖で釜をかきまぜると・・・・・

大覚寺狂言 閻魔庁 

錫杖につかまって幽霊さんが釜の中から出てきました。

③うちわは魂を呼び寄せる呪具

古の人々はうちわを『魂を呼び寄せる呪具』であると考えていました。
お地蔵様が手にうちわを持っているのは、鬼に食べられてしまった幽霊さんの魂を呼び寄せるためなのではないでしょうか。

③閻魔大王とお地蔵さまは同体

閻魔大王とお地蔵様は見かけは全く異なりますが、同体であると言われます。
閻魔大王は死者を裁きますが、死者が地獄で受けるのと同じ痛みを自分自身も受けるといわれます。
また、地蔵菩薩は地獄に現れて人々の身代わりになって地獄の責め苦を受けてくださるとも言われています。
つまり死者を裁く閻魔大王は地獄で地蔵菩薩となって現れ、人々の身代わりになってくださるということでしょう。

④陰の閻魔大王が陽に転じて地蔵菩薩になった?

閻魔大王とお地蔵様が同体であるというのは、陰陽道の考え方によるものだと思います。
陰陽道では陰が極まれば陽に転じると考えます。
ここから、陰=祟り神は、祀り上げれば陽の存在=ご利益を与えてくださる守護神に転じると考えられるようになりました。

つまり陰が閻魔大王で、それが陽に転じたのが地蔵菩薩なのではないかと思うわけです。





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[2017/02/12 00:00] 兵庫の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堂島薬師堂 節分お水汲み祭② 『お水汲みは修二会の行事?』※追記あり 



大阪市北区 
堂島薬師堂
節分お水汲み祭・・・2月3日


堂島薬師堂 節分お水汲み祭 『節分は日本版ハロウィン?』 
↑ こちらの記事の続きです。

堂島薬師堂 鬼 
節分お水汲み祭

堂島薬師堂の節分お水汲み祭では、新地の街に大勢の鬼が出没します。
難波っ子の鬼のせいか、気さくで乗りのいい鬼さんばかりです。

堂島薬師堂 鬼と山伏

節分お水汲み祭

①お水汲み護符


なぜ「節分お水汲み祭」というのかというと、節分の日、「お水汲み護符」を授与しているからだそうです。

堂島薬師堂 お水汲み 

節分お水汲み祭 たぶん薬師寺のお坊様

「お水汲み護符」とは、奈良・薬師寺の水と堂島川の水を清めたお香水のことで、竹筒に入っています。
堂島薬師堂と奈良の薬師寺は関係があったんですね!

薬師寺 月 

奈良 薬師寺

②修二会のお水取りと関係がある?

もしかしたら堂島薬師堂の「お水汲み」は修二会の「お水取り」と関係があるかもしれませんね。

修二会で有名なのは奈良東大寺二月堂のものですが、修二会の行事のひとつに、「お水取り」があります。
このお水取りに先駆けて、3月2日、若狭神宮寺近くの鵜の瀬でお香水を流す「お水送り」の行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂閼伽井屋は繫がっており、10日で、二月堂閼伽井屋にお香水が届くといわれ、3月13日深夜にこのお香水を汲む「お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

③修二会と節分、お水取りは一連の行事?

「お水取り」の行事は法隆寺でも2月11日に行われています。

夢殿の礼盤(お坊さんが座る台)の下の板を日にあてると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

法隆寺では、この「お水取り」行事の8日前の2月3日(節分)に、修二会の行事である追儺式を行っています。

参照/法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 

法隆寺 追儺式 青鬼

法隆寺 追儺式

③薬師寺 修二会〈花会式)


堂島薬師堂のお水汲み祭では奈良薬師寺と堂島川の水を汲むということですが
この薬師寺でも修二会が行われています。
行われるのは、3月30日から4月5日で、節分ではありませんが。

薬師寺の修二会でも追儺式が行われます。

薬師寺 花会式 追儺 

薬師寺 修二会 追儺

※追記 2月14日に行われる長谷寺のだだおしも修二会の行事でしたね。追加させていただきます。
やはり鬼が松明を持って登場しますよ。


長谷寺 ただおし 赤鬼

④お松明を振り回す童子は鬼?

奈良の新薬師寺でも修二会が行われています。こちらは4月8日に行われています。
追儺式はありませんが、東大寺二月堂と同様の、お松明の行事が行われます。

新薬師寺 お松明

新薬師寺 修二会 お松明

二月堂 修二会 お松明 
東大寺二月堂修二会 お松明

東大寺二月堂修二会のお松明は童子と呼ばれる人によって振り回されます。
鬼は茨木童子・酒呑童子などのように童子と呼ばれますし、京都八瀬の人々は鬼の子孫を称し「八瀬童子」と呼ばれています。
二月堂のお松明を振り回す人は鬼のコスプレはしていませんが、童子と呼ばれているので、鬼を表しているのではないでしょうか。

④薬師如来と修二会


修二会が行われる東大寺二月堂・法隆寺西円堂・薬師寺金堂・新薬師寺のうち、東大寺二月堂の御本尊は十一面観音ですが
他の法隆寺西円堂・薬師寺金堂・新薬師寺の御本尊は薬師如来です。
堂島薬師堂の御本尊も薬師如来です。

⑤まとめ


ややこしくなってきたので、表にまとめます。
寺名御本尊祭名日付松明追儺お水取り
堂島
薬師堂
薬師如来節分お水汲み祭2月3日✕ 
護摩有
? お水汲みが行われる
東大寺
二月堂
十一面観音修二会3月1日~15日✕ 
松明を振る人は童子(鬼?)
〇 3月12日
法隆寺
西円堂
薬師如来修二会2月3日 
〇 2月11日
薬師寺
金堂
薬師如来修二会(花会式)3月30日~4月5日✕ 堂島薬師堂のお水汲みは
薬師寺と堂島川の水を汲む
新薬師寺薬師如来修二会4月8日
松明を振る人は童子(鬼?)
長谷寺十一面観音修二会(だだおし)2月14日


上の表を見ると、他のお寺の修二会行事との類似性から、堂島薬師堂のお水汲みとは、お水取りと同様のものであり
修二会の行事にルーツを持つもののようにも思えます。(思わない?)

堂島薬師堂 黄鬼  

節分お水汲み祭

⑥お水取りと陰陽五行思想

それともお水取りやお水汲みは修二会とは関係なく、単に新春の行事なのかな?

陰陽五行思想では春は木、夏が火、秋が金、冬は水、春夏秋冬の最後の約18日を土(土用)とします。
この中の「冬は水」に注意してください。
水を取ることは、冬を取ることであると昔の人は考えたのかもしれません。
そして水=冬を取ると春がやってくるということだったりして。

堂島薬師堂 赤鬼

 ぎゃーーーーっ!
節分お水汲み祭

堂島薬師堂 お水汲み護符 

節分お水汲み祭



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[2017/02/11 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堂島薬師堂 節分お水汲み祭 『節分は日本版ハロウィン?』 


堂島薬師堂・・・大阪府大阪市北区堂島1-6
節分お水汲み祭・・・2月3日


堂島薬師堂はどこだ?

堂島薬師堂 鬼大集合

ええーーー!! このみどり館みたいな建物が堂島薬師堂!

堂島薬師堂 護摩

薬師堂の隣では護摩供が行われていました。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさんたち 太夫道中    
節分のお化け

節分には『お化け』といって変装して町を練り歩く習慣があります。
写真は太夫さんに扮したお化けさんです。
江戸では花魁というそうですが、関西では太夫といいます。
30cmはありそうな駒下駄をはき、八文字を踏んで歩いておられました。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん 太夫


最近日本でもハロウィンに仮装する習慣が根付いてきましたが、日本には江戸時代末ごろより節分に仮装して練り歩く『お化け』という習慣がありました。
節分の夜には鬼が出ると信じられ、その鬼に狙われないよう、こうした仮装をするのだと考えられています。
昭和になって『お化け』の習慣は廃れてしまったのですが、大阪の北新地では節分の夜に大勢の美しすぐるお化けさんが現れます。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん


②古代ケルト人と日本人は大晦日に仮装する

ハロウィンは古代ケルト人の祭が起源だと考えられています。
ケルト人は10月31日を1年の終わりだと考えていました。
そしてこの日には死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたのです。
その際、悪い霊もやってくると考えられ、その悪霊から身を守るため、ハロウィンには仮装する習慣が生じたといわれています。

節分とは暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
現在では春とは3月・4月・5月ですが、旧暦では春は1月・2月・3月でした。
従って、立春とは二十四節気の正月であり、その前日の節分は大晦日だといえるでしょう。
(詳しくはこちらの記事をお読みください。→長谷寺 観音万燈会 『冬至、クリスマス、正月、節分の関係』 

ハロウィン…10月31日・・・ケルト人の大晦日
節分・・・・・・・2月3日(新暦)=12月31日(旧暦)・・・旧暦の大晦日


古代ケルト人と日本人は、どちらも大晦日に仮装する習慣があるということになります。
これは偶然なのでしょうか?

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん2  

③秦氏が日本にキリスト教をもたらした?

ハロウィンはキリスト教の行事として根付いています。
日本にキリスト教が伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってだとされています。
もしかしたら、このときハロウィンの習慣も日本にもたらされたのでしょうか?

しかし、キリスト教の伝来は実はもっと古く、古代渡来人の秦氏がもたらしたとする説もあります。

日本書紀によれば、283年、弓月君が百済より百二十県の人を率いて日本に帰化したのが秦氏であるとしています。

秦氏は百済からやってきたとありますが、それは百済を経由してやってきたということであり、秦氏の故郷は中央アジアにあったキリスト教国『弓月王国』ではないか、と佐伯好朗氏はおっしゃっています。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん達

④記紀神話と聖書にそっくりな記述が!

また、飛鳥昭雄さんは、記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあると指摘されています。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けました。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応。

聖書3日目/神は地と海を作りました。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせました。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記します。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もあります。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言いました。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造り、造ったものを見て満足しました。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏し(阿夜訶志古)は賞賛を意味します。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したということ。 


大晦日に悪霊(鬼)が出るので、仮装するという習慣が古代ケルト人と日本人に共通しているのは、日本神道がキリスト教の影響を受けたものであるためなのかも?

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん達と浄瑠璃人形 

 堂島薬師堂 龍



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[2017/02/10 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 


奈良県斑鳩町 法隆寺
追儺式・・・2月3日


法隆寺 夕景 

①法隆寺追儺式の撮影は難しい!


法隆寺の追儺式は西円堂の周囲に金網をめぐらせて行われます。
なぜ金網をめぐらせるのかというと、法隆寺の追儺式では鬼が手に持った松明を投げるのです。
投げた松明が参拝者に当たると危ないので、お寺が配慮して金網を設けてくださっているのだと思います。

安全が第一なので文句を言うつもりはないんですが、金網がはってあると、ストロボが使えません。
ストロボたくと、金網が真っ白に写ってしまい、金網の向う側で行われている追儺式のようすが写らないんです。

また人が多いので当然三脚は禁止です。
その上、鬼の動きが速いので感度をISO12800まであげてもブレブレに~。

ですが、撮影するのが難しい被写体ほどリベンジに燃えるよね~。

そんなわけであんまりいい写真はないけど、掲載させていただきます。(汗) 

法隆寺 追儺式 青鬼

金網を消す方法ないかなあ?(いい方法があったら教えて~)

②毘沙門天が登場する追儺式


興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 
↑ こちらの記事に、毘沙門天が登場する奈良の追儺式は修二会の行事ではないかと書きました。

法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場します。

法隆寺 追儺式 毘沙門天   
毘沙門天

③修二会にルーツを持つ追儺式


修二会といえば、東大寺二月堂のものが有名ですね。

二月堂 お松明 
東大寺 二月堂 修二会 お松明

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

そして法隆寺の修二会の行事のひとつ、追儺式では鬼が荒々しく松明を振り回して放り投げます。
これは東大寺二月堂修二会で童子が行うお松明行事と同様のものではないでしょうか?

法隆寺 追儺式 緑鬼 

③法隆寺の七不思議


法隆寺には七つの謎があるとされ、法隆寺七不思議といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。
 
 
⑥については法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 
⑦については法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 
で私流の謎解きをしましたので、一読いただけると嬉しいです。

法隆寺 追儺式 赤鬼2

④法隆寺のお水取り

えー、法隆寺七不思議の④に「夢殿の礼盤(らいばん)の裏は汗をかいている。」というのがありますね。

これに関連する行事が、法隆寺追儺式から8日目の2月11日に行われています。
朝の8時くらいから始まるそうですが、早起きが苦手なので、見学したことがありません。(またしても汗)

礼盤とはお坊さんが座る台のことです。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

この行事は「お水取り」と言われています。

 法隆寺 追儺式 赤鬼

⑤法隆寺お水取りは修二会の行事?

私は法隆寺のお水取りは2月3日の追儺式に続く修二会の行事ではないかと思います。

というのは、東大寺二月堂の修二会の行事の中にもお水取りの行事があるからです。

3月2日、福井の鵜の瀬で「お水送り」といって、お香水を流す行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂若狭井に届くと言われています。
そして3月13日の午前1時半ごろ、二月堂の閼伽井屋で、鵜の瀬から送られたお香水をとる『お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

⑥法隆寺の「お水取り」はいつ始まったの?

東大寺二月堂の修二会がはじめておこなわれたのは751年(『二月堂縁起絵巻』1545年による)ですが、法隆寺の修二会がはじめられたのは1261年とされています。

ですがこのとき、夢殿は開扉されていなかったはずなんです。
夢殿の御本尊・救世観音は長年絶対秘仏とされており、夢殿の扉を開くと大地震がくると言い伝えられていて、長年扉があけられていなかったのです。
その夢殿の扉が開かれたのは、1884年、岡倉天心とフェノロサによってです。

法隆寺の「お水取り」は夢殿の救世観音像の前にある礼盤にたまった水を取る行事なので、実際にこの行事がはじめられたのは、夢殿を開扉した1884年以降(明治17年)以降なのではないでしょうか。

しかし法隆寺七不思議は江戸時代からあるといわれています。
これが正しければ、法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」という伝説そのものは夢殿開扉前よりあり
この伝説に基づいて「お水取り」行事は1884年以降に行われるようになったと考えることができるかもしれません。

また、法隆寺七不思議のひとつ
法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」 
は、1884年以降に付け加えられたとか、法隆寺七不思議そのものの成立が1884年以降であるとも考えられます。

あるいは、夢殿が開扉する以前には、別の場所でお水取り行事を行っていた可能性もありますね。

法隆寺 追儺式 青鬼 




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[2017/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』 

奈良市中院町 元興寺
節分会・・・2月3日


元興寺 武道 

①妖怪・元興寺(がこぜ)

『日本霊異記(822年ごろに成立)』に元興寺を舞台とする次のような話が記されています。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。

元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。

鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。

元興寺 武道
 
②物語の矛盾点

この物語には矛盾点があります。

元興寺が飛鳥から奈良へ移転したのは718年。
またその前身である法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことです。
ところが敏達天皇の在位は572年-585年なんですね。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしていますが、そのころ奈良に元興寺はなかったのです。

あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないでしょうか?


元興寺 護摩 
③物部守屋

敏達天皇に仕えた人物に蘇我馬子がいます。
587年、蘇我馬子は廃仏派の物部守屋との戦いに勝利し、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建てました。
さきほどお話ししたように、この法興寺が718年に奈良に移転して元興寺となったわけです。

また、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立しました。 

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれています。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられました。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。

守屋祠は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものだといえるでしょう。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだと考えられるからです。

そして四天王寺と法興寺(飛鳥寺/のちの元興寺)はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられたお寺です。

元興寺 護摩 

●大物主神は物部氏の神? 

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たりませんが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えています。

飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神がいます。

大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命といい、大神神社の御祭神でもあります。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。

鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

元興寺 護摩

●妖怪がこぜの正体

神はその現れ方によって三つに分類されるといわれます。
頭に蛇を巻いた童子が和魂で、がこぜは荒魂、その本性である御魂は物部守屋なのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和魂・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのではないか、ということです。

もちろん、『自分で自分を殺す』なんてことは普通はできません。

また物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのです。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋が自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方です。

元興寺 武道

元興寺 火渡り2 

火渡りは10年以上前にフィルムで撮影したものです。
最近はもっと炎を鎮めて火渡りを行っています。

元興寺 火渡り 

②福は内 鬼は内

火渡り修行が終わると豆まきです。
豆まきではふつう「福は内、鬼は外」とかけ声をかけますね。
元興寺はちがいます。
「福は内、鬼は内」とかけ声をかけます。

元興寺 豆まき


元興寺のように「福は内、鬼は内」とかけ声をかける豆まきを行う寺社は他にも結構あります。

なぜ「鬼は内」とかけ声をかけるのでしょうか?
その理由はそれぞれの寺社によって異なるようですが、次のような理由があるみたいですね。

a.「鬼塚さん」のように、鬼の字のつく姓の人が近所に住んでいる。
b.鬼を祭神または神の使いとしている。

元興寺はbだと思います。

元興寺は妖怪・元興寺(がこぜ)を慰霊するための寺だと考えられるからです。

 
元興寺 豆まき 



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[2017/02/07 11:07] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

善水寺 節分会星祭 『青鬼はなぜ熊手を持っているの?』 

  滋賀県湖南市 善水寺
節分会星祭・・・2月3日


①善水寺 節分会星祭

善水寺 節分会星祭5

護摩がたかれます。

善水寺 節分会星祭3 

鬼参上!

善水寺 節分会星祭2 

鬼は僧侶の法力によって三毒消除されます。

善水寺 節分会星祭   

三毒とは、貪欲(むさぼりの毒)、瞋恚(しんに/いかりの毒)、愚痴(愚かさの毒)のことをさします。

善水寺 節分会星祭 豆まき 

②鬼熊手

もう一度、2枚目の写真を見てください。青鬼は手に熊手を持っていますね。
なぜ青鬼は手に熊手を持っているのでしょうか?

調べてみると熊手は別名を鬼熊手ともいうようです。
妖怪・百鬼夜行シリーズ ← こちらのサイトには熊手という妖怪が紹介されています。『熊の手が妖怪に化けたもの』と説明されています。

③神武天皇、熊の化け物に出会って気絶する。

日本書紀には次のような内容が記されています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端だということで、東征して畿内入りをめざしました。
白肩の津(東大阪付近?)で神武天皇は船を降りて上陸しましたが、地元の豪族・ナガスネヒコと戦って敗走しました。
神武天皇はいったん南に迂回して、そこから北上して畿内入りする計画をたてました。
神武は熊野で大きな熊の化け物にあい、毒気にあてられて気絶してしまいました。


古の人々は熊を恐ろしい化け物であると考えたようです。
すると、青鬼は熊の妖怪なのかも?

④おまえ百まで、わしゃ九十九まで

また「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」と謡う俗謡があります。
これは謡曲『高砂』からくるものと考えられていますが、謡曲『高砂』では尉は『くまで』を、姥は『ほうき』を手に持っています。

尉が『くまで』を持っているのは『きゅうじゅうくまで』という意味、
姥が『ほうき』を持っているのは『掃く→ひゃく(百)』に掛けてあるといわれています。

善水寺 節分会星祭4
⑤九十九(つくも)神

ということは、『くまで』は『九十九』を意味するものであるとも考えられますが、『九十九』は『つくも』ともよみます。
『つくも』とは『次、百(つぎもも)』という意味だそうです。
そして器物は百年たつと精霊が憑いて妖怪になるとと考えられており、このような器物の妖怪のことを『つくも神(九十九神・付喪神)』といいます。
青鬼が熊手を持っているのは、鬼が『つくも神』であることを現しているのかも?

皆様はどう思われますか?

善水寺 節分会星祭6

鬼のお加持


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[2017/02/06 01:25] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 節分会 『鬼はなぜ牛の角を生やし虎皮のパンツをはいているの?』 


奈良県吉野郡吉野町 
金峯山寺蔵王堂
節分会…2月3日


①金峯山寺 蔵王堂 節分会

金峯山寺 蔵王堂 追儺会5

zzzz・・・

金峯山寺 蔵王堂 追儺会4  

次、左もやってね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会9 

きく~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会10 
お経、まだ終わらないの?長いね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会11

退屈だから参拝者を脅しちゃおう~。(本当はお加持)
 
金峯山寺 節分会  
let’s dance!

金峯山寺 蔵王堂 追儺会2 

金峯山寺 蔵王堂 追儺会8 
ラララララ~♪

金峯山寺 蔵王堂 追儺会7 
うひゃーー。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会6 
まいりました・・・。

②鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているの?


鬼たちは牛の角を生やし、黄色地に黒の模様の入ったパンツをはいています。
黄色地に黒の模様は簡略化されていますが、虎皮のパンツをあらわしているのでしょう。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき  

上の写真は前にご紹介した石清水八幡宮の鬼ですが、こちらの鬼ははっきり虎皮のパンツだとわかりますね。
なぜ節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのでしょうか。

③旧暦と二十四節気

現在の日本では太陽暦(新暦)を用いていますが、江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりに用いた暦法で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日とします。
1か月の周期は29日または30日です。
すると太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となります。

太陽暦は地球が太陽の周囲を1周するのを1年としています。
地球が太陽を1周するのに要する日数は約365日です。
太陰暦は太陽暦に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるので紙が貴重品だった時代には大変便利でした。
しかし実際の季節とは最大1か月ものずれが生じるので、農作業などに不便が生じます。

そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割し、立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒 とよんでいました。(二十四節気)

④節分は二十四節気の大晦日

節分とは「季節の変わり目」を意味し、もともとは立春(2月4日)・立夏(5月6日)・立秋(8月8日)・立冬(11月8日)の前日のことを言う言葉でした。
本来節分は1年に4回あるのです。
特に立春は季節の変わり目であると同時に1年の変わり目であるため、重要視され、現在では立春の前日のことを節分ということが多いです。
つまり、節分とは二十四節気の大晦日なのです。

江戸時代までの日本では旧暦の正月と、二十四節気の正月と2回正月がありました。
節分は太陽暦の2月3日ごろですが、太陰暦は太陽暦よりも約1か月遅れになるので、旧暦の大晦日と二十四節気の節分はだいたい同時期でした。
金峯山寺 蔵王堂 追儺会3


⑤鬼は丑寅で1年の変わり目をあらわす。

12か月を干支でいえば丑は12月、寅は1月なので丑寅は1年の変わり目を表します。
また方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で、丑寅の方角は鬼が出入りする方角として忌まれていました。

鬼=丑寅=1年の変わり目 だといっていいでしょう。

鬼が牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのは、干支の丑寅(1年の変わり目)をあらわしているのだと思います。
そして鬼=丑寅を追いやることで新年を迎えようというのが追儺式なのだと思います。

目に見えない1年の移り変わりを視覚化したものだといってもいいかもしれませんね。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会


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[2017/02/04 20:37] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 



奈良市登大路 興福寺
追儺会 2月3日


興福寺 追儺会 二匹の鬼 

興福寺 東金堂前に鬼が登場ーー!

興福寺 追儺会 鬼の酒盛り 
①宮中の年中行事に起源を持つ方相氏

前回の記事、吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 で、吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏についてお話ししました。
方相氏は宮中の年中行事である鬼やらい神事に起源を持っています。

吉田神社 方相氏 と しん子 

吉田神社 鬼やらい神事 四ツ目の方相氏


京都では吉田神社のほか、平安神宮や鞍馬寺の追儺式にも方相氏が登場して鬼を祓います。

②毘沙門天が鬼を祓う追儺式

これに対して奈良の追儺式ではここ興福寺のほか、朝護孫子寺、法隆寺などで毘沙門天が鬼を祓います。

興福寺 追儺会 毘沙門天
 
興福寺 追儺会 鬼と闘う毘沙門天

③毘沙門天が登場する追儺は修二会にルーツを持つ?

京都の方相氏が登場する追儺式が宮中の年中行事であったのに対し、奈良の毘沙門天が登場する追儺式は仏教の行事である修二会にルーツがあるのかもしれません。

二月堂 修二会 お松明

上の写真は東大寺二月堂の修二会で行われるお松明の行事です。

仏教発祥の地であるインドの正月は日本の2月にあたり、修二会は新年の行事だと考えられます。
現在では行われていませんが、かつては興福寺でも東金堂と西金堂で修二会を行っていたそうです。

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

興福寺 追儺会 青鬼 

興福寺・東金堂前で行われるの追儺会に登場する鬼も松明を持っています。
もしかして、興福寺の追儺会のルーツはかつて東金堂前で行われていた修二会にあるのではないでしょうか?

興福寺 追儺会-子供の鬼 

子鬼も登場!

④大黒天が登場する興福寺の追儺会

興福寺 追儺会 毘沙門天

毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場しました。

興福寺 大黒天 

 大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていました。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのですが、相変わらずトロい私はゲットできず~。

⑤大黒天は日本版サンタクロース?

それにしても大黒天、まるでサンタクロースのようですね。

サンタクロースが活躍するのはクリスマスですが、クリスマスはミトラ教の冬至祭にルーツを持っています。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろですが、3日後の25日ごろより、太陽は再び南中高度をあげていきます。
そのためミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのです。

古代の中国では冬至を1年の始点としていたといいますし、日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期でした。
そのため立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていいでしょう。

つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけです。

そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われています。

クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?

File:BritishMuseumMithras.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりお借りしました。

上の写真は大英博物館所蔵の牡牛を屠るミトラス像です。
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、ミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう~。

興福寺 追儺会 三匹の鬼 

 
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[2017/02/03 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 

京都市左京区  吉田神社
鬼やらい神事・・・2月2日 18時より 
                    

① 吉田神社 鬼やらい神事

陽が沈み闇に包まれた吉田神社境内。
あちこちで子供が泣く声が聴こえます。

吉田神社 節分祭 赤鬼

鬼が登場!
吉田神社 節分祭 青鬼 
 
さきほど聞こえていたのは、鬼に脅された子供の鳴き声だったのでしょう~。

吉田神社 節分祭 黄鬼 

コスプレのルーツ?

②方相氏

吉田神社 方相氏 と しん子 
おおーーーっ、ひときわ恐ろし気な鬼?四ツ目だし!

いえ、これは鬼ではなく方相氏といいます。
方相氏のあとにつづく10人の童子はシン子(シンの字は人偏に辰)と呼ばれています。

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

方相氏が手に持った鉾をかざすと、その法力で鬼たちはへろへろになって逃げていきました。
方相氏は鬼を退治する正義のヒーローだったのです。

岡野玲子さんの漫画「陰陽師」には源 博雅が方相氏に扮するシーンがありましたね。
『陰陽師』は平安時代の都を舞台とする物語です。

方相を射る?

平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
なんと、鬼を追い払ってくれる正義のヒーロー、方相氏を射るというのです。

ええーーっ?方相氏って正義のヒーローなのに、弓で射て殺しちゃうんですか?

吉田神社 方相氏 と しん子 

④平安時代の追儺式に鬼は登場しなかった。

枕草子や源氏物語などに追儺式の様子が記されています。
それらの文献から、平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられています。

追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。
これは桃や葦にも邪気を祓う力があるとされていたためである。


ピンク色の文字の部分をよーく読んでみてほしいのですが
平安時代の追儺式に方相氏とシン子は登場しますが、鬼は登場しませんね。

岡野玲子さんの漫画『陰陽師』でも追儺式に鬼は出てきませんでした。
追儺式に鬼が登場するようになるのは、平安時代よりも後の時代になってからなのでしょう。

⑤大寒の日、牛を牽く童子の像を立てる。

967年施行の延喜式には次のように記されています。

大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。


なぜこのようなことをするのでしょうか。

牛は干支の丑を表すものだと思います。
丑は12月を表します。

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符です。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわします。

つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないでしょうか。

⑥『牛を牽く童子の像』は身代わり人形?

そして日本には『身代わり人形』『身代わり地蔵』などの信仰がありました。
人形やお地蔵さまが人間の身代わりになって災難をうけてくれるという信仰ですね。
↓ こちらは市比売神社・ひいなまつりの、人形に息を吹きかけて穢れを移す神事です。

市比売神社 天児人形2 

↓ こちらは下鴨神社の雛流しです。
人形を川に流して、厄を祓うという神事です。

下鴨神社 流し雛

これらの行事は『身代わり人形』の信仰によるものだと言えるでしょう。

『牛を引く童子の像も『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたのではないでしょうか。

⑥方相氏+シン子=牛を牽く童子

角のある方相氏は牛ではないでしょうか。
そしてシン子は童子なので、これは『牛を牽く童子』そのものではないかと思います。

大寒の日、諸門に建てられた『牛を牽く童子の像』は冬の気をいっぱいに吸いこんだのち、節分に撤去されます。
ですが、像の中に吸い込みきれない冬の気があると考えられ、方相氏とシン子は宮中を練り歩いてその体内に冬の気を吸い込んでいるのではないでしょうか。

そして方相氏がその体内に冬の気を十分に吸ったところで、
大江匡房の『江家次第』に『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とあるように、矢を射て殺してしまうということなのでは。

吉田神社 節分祭 赤鬼 


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[2017/02/02 00:09] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)