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来迎寺 本尊掛松 桜 『幽霊と融通念仏宗』 


大阪府守口市 来迎寺
大阪府枚方市 本尊掛松


佐太天満宮 

佐太天神宮

佐太天神宮の向かいに来迎寺はあります。

来迎寺

来迎寺

①天筆如来と本尊掛松


来迎寺は現在は浄土宗ですが、もともとは融通念仏宗・佐太派の本山でした。

859年、奈良大安寺の行教上人は九州の宇佐八幡宮に国家安泰を祈願されました。
その満願の日、行教上人の袈裟の上にみほとけが姿をあらわしたといいます。
このみほとけのお姿を写したものを「天筆如来」といい、石清水八幡宮のご神体とされました。

1342年4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司と深江の法明上人(融通念仏宗の中興)に夢告げがありました。
それは石清水八幡宮のご神体である「天筆如来」を法明上人に授けるというお告げでした。
石清水八幡宮の宮司と法明上人は、現在の枚方市茄子作一本松で会い、宮司は法明上人に天筆如来を授けました。
現在、この場所は「本尊掛松」と呼ばれる史跡となっています。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(桜に気をとられすぎて、松が写っておりませんが~汗)

 法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授けました。
実尊上人は、1347年にこの天筆如来をご本尊として紫雲山来迎寺を創建されました。

②来迎寺が移転を繰り返した理由

当初は守口市来迎町にありましたが、二十六回も移転を繰り返して現在地に至っています。

なぜ来迎寺は二十六回も移転を繰り返したのでしょうか?

来迎寺のhpには「来迎寺独特の相続法により」と書いてあります。
来迎寺独特の相続法とはどのようなものなんでしょうか?

守口市史編纂委員会は調査結果より次のように説明しています。

⑴2世の時代以降に北朝方の足利義満から圧力を受けて創建当初の堂宇を維持できなくなった。
⑵住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めていたため、代替わり毎に相続者の居村に移転した。
⑶同村の者が相続した場合は移転していない。

来迎寺3

来迎寺

③幽霊の足跡

この寺には幽霊の足跡と呼ばれる足形が伝えられています。

1743年7月14日、35世慈天上人の前女の幽霊が現れてこう言いました。
「私は江戸にで天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石と申します。
臨終の際、主人が葬いもしてくれませんでしたので、成仏できずに迷っています。どうかご回向をして下さい。」
慈天上人は幽霊に「心光清蓮」という法名を授け、座具を敷き幽霊をその上にたたせて念仏回向しました。
すると幽霊は「迷いはさめ、仏さまのもとへ参れます。」といい足跡を残して姿を消しました。


えーっ、幽霊なのに足跡?
幽霊って足なかったんじゃないの?

以前、大阪市平野区の大念仏寺にある幽霊博物館で、幽霊の絵を見たことがあります。
もう随分昔のことなので、ほとんど忘れてしまいましたが、その図録が手元にあります。

大念仏寺 練り供養 
大念仏寺

平知盛亡霊図、菅公怨霊図、仙台高尾亡霊図などなど。
写真が小さくて確認できない絵もありますが、明確に足が描かれているものはないです。
幽霊の足がなくなったのは、円山応挙(1733~1795年)が足のない幽霊を描いて以降、と言われます。

来迎寺に幽霊が現れたのは1743年で、このとき円山応挙はまだ10歳。
1743年にはまだ足のない幽霊が登場していなかったのかも?

地獄絵に描かれた亡者には足は描かれていますけどね。

西福寺 地獄絵 
西福寺 地獄絵


それはともかく、私が気になるのは、融通念仏宗の寺に幽霊の絵が残されているということです。

幽霊の足跡がある来迎寺は現在は浄土宗ですが、もともとは融通念仏宗。
幽霊博物館がある大念仏寺は融通念仏宗の総本山です。

融通念仏宗は幽霊と関係が深い宗派だったりして?

来迎寺5 
来迎寺4

来迎寺2


来迎寺  
来迎寺(4枚とも)



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[2020/03/25 18:21] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

山田神社 (枚方市) 雪 『山田神社末社の石神社はミシャグジ様?』 



大阪府枚方市山之上 山田神社


山田神社 由緒書

①安倍晴明が加持祈祷した石を祀る石神社

山田神社の由緒書に次のように記されていました。

末社 石神社
寛弘元年、 安倍晴明 藤田ノの里に滞在シテ修業シタ時ノ加持石ヲ田中修理亮芳秀ガ本社ノの傍ニ祀ル


寛弘元年(1004年)安倍晴明が藤田の里で修行したときに用いた鍛冶石を、のちに田中修理亮芳秀が祀ったのが石神社だということですね。

田中修理亮芳秀が山田神社を創建したのは1279年ですから、そのころ石神社も作られたということになります。
しかし、加持石はそれ以前からこの場所にあったということでしょう。

「藤田の里」とありますが、山田神社の前を流れる川は藤田川(とうだがわ)といいます。
現在山田神社がある場所はかつて藤田の里と呼ばれていたということではないかと思います。

それではお参りしましょう~。

山田神社 雪2 
あれっ?本殿の横に石神社があるはずなのにありません。

山田神社 本殿 
扉をあけてみると梁の部分に石神社、春日神社と書いてありました。

山田神社 本殿 石神社 春日神社 
↑ 建物の中に3つの社が並んでいました。
建物は本殿ではなく、拝殿だったんですね。
拝殿の中にある3つの社は中央がスサノオ・イナダヒメを祀る本殿、向かって右側が春日神社、向かって左が石神社です。

②物部氏と安倍氏の関係

枚方市・交野市あたりはかつて交野ケ原と呼ばれ、平安貴族たちの狩猟の場であったといわれます。
そのため惟喬親王や在原業平にまつわる伝説が多いですが、安倍晴明の伝説は初めて聞きました。

交野が原と呼ばれるこの地域は古くは肩野物部氏の土地であったといわれます。
物部氏と安倍氏は関係なくもないように思います。

というのは次のような伝説があるからです。

初代神武天皇は九州より東征して現在の大阪あたりから上陸。
しかし、そこにはすでに天孫(天照大神の子孫)であるニギハヤヒ(物部氏の祖神)が天下っており、ナガスネヒコがニギハヤヒを神として奉じていた。
神武とナガスネヒコは戦うが、ニギハヤヒは神武に服してしまい、ナガスネヒコはニギハヤヒによって殺された。

ナガスネヒコにはアビヒコという兄がおり、津軽地方へのがれた。
アビヒコは安倍氏の祖とも伝わる。


安倍晴明の生没年は921年~1005年(83~84歳)なので、晴明がここで加持祈祷をしたのは、かなり晩年のことになりますね。
もしかしたら、鍛冶石は安倍晴明の霊が宿る石として信仰されており、そこから安倍晴明の加持石であるといわれるようになったのかも?

安倍晴明神社 阿倍晴明像 

安倍晴明神社 安倍晴明像


③石神社はミシャグジ様

石神社という名前は聞いたことがあります。

http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-609.html


参拝したことはないんですが、名古屋市南区に石神社があります。

石神社はミシャグジ様と呼ばれ、杓子を奉納する習慣があるということです。
山田神社末社の石神社には杓子は奉納されていませんでしたが、
もしかして、山田神社境内にある石神社もミシャグジ様?


山田神社 末社 春日神社 

春日神社

ミシャクジ様の正体については、下記に書きました。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-29.html


だけど記事が1~18まであって長いんですよね~。
特に下記2つの記事を読んでいただければ嬉しいなと思います♪

ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』 
ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? 


山田神社 末社 石神社 

石神社

山田神社 雪 




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[2020/03/07 23:15] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

常称寺(大阪府 枚方市)雪 

大阪府枚方市 常称寺

常称寺 門

①親鸞と結婚した九条兼実の娘・玉日 

雪の降る常称寺。
近所の方にうかがったところ、このあたりで雪が積もるなんてことはめったにないということでした。

浄土真宗のお寺だとかで、浄土真宗の開祖・親鸞の像が置いてありました。

※門前の石碑には「存覚上人~」とありますが、像は親鸞だと思います。
守口市の存覚上人旧跡・光明寺にも同様の像があり、親鸞聖人像とされているようなので。
https://moriguchi.club/zonkaku-shounin-koumyouji/

常称寺 親鸞像 

親鸞さん、雪をかぶって寒そうですね~。

親鸞さんといえば僧侶として初めて妻帯したことで有名ですね。

こんな話がありますよ。

九条兼実「女人を絶った僧が唱える念仏と、俗にまみれた私が唱える念仏は功徳が違うのではないでしょうか。」

法然「出家の称える念仏も弥陀回向。在家の称える念仏も弥陀回向。回向の念仏に変わりはありません。
阿弥陀様の本願は、悪人・女人です。
私も愚かな法然として念仏を称えています」

九条兼実「後の世の人々が私のように迷わないように、法然様のお弟子さんと私の娘を結婚させていただけないでしょうか。」

法然「綽空(親鸞のこと)、九条兼実公の婿となられよ。そして在家の人々の先達になれ」

そういったいきさつがあり、1203年10月5日に31歳の親鸞は兼実の末娘・玉日18歳と結婚しました。

京都市伏見区深草直違橋の西岸寺はかつて藤原忠通(1097~1164)が建立した法性寺小御堂があり
1207年親鸞が越後に流罪となってから、玉日がここに住み、ここで没したと伝わり、墓が建てられているということです。

茨城県結城市にも「玉日姫の墓」があるようです。
越後へ流された親鸞をおって玉日は侍女・白川局とともに結城にやってきて、親鸞の教えを広め、1254年にこの地で没したと伝えられています。

常称寺 本堂


②恵信尼と玉日は別人だった?


親鸞の妻に恵信尼がいます。
かつては恵信尼と玉日は同一人物だと考えられていたこともあったそうです。

しかし1921年に恵信尼が娘・覚信尼(かくしんに)に宛てた手紙等(恵信尼文書が発見されました。
その内容から恵信尼は三善為則(みよしためのり)の娘であると判明しました。

玉日は九条兼実の娘だと言い伝えられていたので、恵信尼と玉日は別人ではないかとか、玉日は伝説上の人物ではないかなどといわれるようになったようです。

③玉日の墓の発掘調査

2012年京都市伏見区の西岸寺の玉日の墓を発掘調査したところ、人骨と骨つぼが発見されました。
人骨は火葬されているため埋葬年代や性別の判断ができないということです
この墓は1852年に九条家が御廟所を改葬したという記録があり、骨つぼの製作時期と一致しているとのこと。

うーん、これは玉日の実在を裏付ける根拠としては決定打とはいいがたいような~?

④「親鸞聖人伝絵」「正明伝」の食い違い

「親鸞聖人伝絵」では、流罪を許された親鸞は法然が亡くなったことを聞き、京に帰る理由がなくなったとして関東に向かったとしているそうです。

ところが高田派の「正明伝」では、流罪を許された親鸞が法然上人の墓と玉日姫の墓に参った様子が記されているとのこと。

親鸞は4男3女をもうけています。

範意〈印信〉/玉日の子?(本願寺系図別本による)―娘‐―源伊(範意の孫)
小黒女房
善鸞/玉日の子?(本願寺系図別本による)
明信〈栗沢信蓮房〉
有房〈益方大夫入道〉
高野禅尼
覚信尼ー覚惠(覚信尼の子)ー覚如(覚恵の子)ー存覚・従覚
ー唯善(覚信尼の子、覚恵の異父弟)


覚如は父・覚恵の異父弟・唯善、玉日の子・範意の娘の子源伊との間で相続争いをしていたと言われます。
そのため、「親鸞聖人伝絵」は、玉日姫の墓参りをわざと省いたのではないかとする説があります。

一方、山田文昭は「正明伝」は偽作だとしています。
その根拠は「正明伝」に突然怪奇談が五つも表れるからということのようです。

梅原猛氏は、怪奇談は当時の怨霊信仰から考えて、怪綺談が登場するのは当然であるとして、「正明伝」は偽作ではないとされました。

また、親鸞が善鸞に充てた手紙に「継母に言い惑わされたると書かれた事、殊にあさましきことなり」と書いていることから
恵心尼は親鸞の2番目の妻であるとする説もあるようです。

本願寺系図の別本には、「印信(範意)」並び「善鸞」は「母月輪関白兼実公女」とあるということです。

親鸞は、流罪となる前に九条兼実公の娘・玉日との間に「印信(範意)」「善鸞」の二男子をもうけ、
流罪後に三善為則の娘、恵信尼公との間に四人の子をもうけたのではないかというのです。
新潟にはこの四名の子らの名前「栗沢」「益方」「高野」「小黒」の地名が存在しているそうです。

玉日は親鸞流罪の約2年のちに京で亡くなってしまったので、越後之介三善為則の娘恵信尼公が玉日姫に代わってり越後へおもむき親鸞の世話をしたのではないかとしています。(当時遠流には妻をともなう習わしでした。)

⑤玉日は室町時代になって初めて史料に登場する。


今井 雅晴 さんは「親鸞の妻 玉日は実在したのか?―父とされる関白九条兼実研究を軸に (歴史を知り、親鸞を知る) 」という本の中で次のようなことを述べておられるそうです。

⑴玉日が史料に登場するのは、室町時代の『親鸞聖人御因縁』『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』
⑵九条兼実の娘は任子のみとされる。
⑶玉日が兼実の娘であったとすれば、兼実は天皇の后とするため画策したはずである。
⑷玉日は実在しない架空の人物ではないか。

そのほかにも玉日を実在の人物ではないとする説の論拠として、次のようなものがあります。

⑸九条兼実の日記「玉葉」に玉日のことは書かれていない。

⑥玉日実在説、玉日虚構説まとめ

たぶん(曖昧ですいません。実際に本を読んだだけでなく、ネットでぐぐった知識だけで語っているので)
玉日実在説、玉日虚構説は下のようにまとめられるのかなと思います。

玉日実在説玉日虚構説
玉日の記録がないのは、僧侶の妻帯が憚られたため玉日が史料に登場するのは、室町時代
九条兼実の日記にも玉日のことは記されていない。

さて、どちらが正しいのか?

後の時代に、当時の権力者・九条兼実と親鸞を結び付けて玉日の物語が創作されたような気もしますが
もっとつっこんで考えないと、これだけでは結論だせないなあ、と思いました。

玉日が実在したと考えると、兼実は玉日が生まれたときから親鸞の妻にしようと考えてはいなかったと思われます。
兼実は日記に玉日のことを記したが、のちになって兼実もしくは別の人によってその部分が削除されたと考えるのが妥当だと思います。

不自然に日記の記述が削除された跡などはあるのかどうか、というのが気になります。

さんはどうお考えになりますか?




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[2020/03/01 13:43] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

旧小西儀助商店 紅葉 少彦名神社 神農祭 『神農さんと聖徳太子は習合されている?』 



大阪市中央区道修町 旧小西儀助商店  少彦名神社

コニシボンド いちょう

旧小西儀助商店  


①旧小西儀助商店

ここはどこでしょう?
古い町並みが残る城下町?

実はここは大阪の北浜駅を下車してすぐのオフィス街、道修町です。
この建物は旧小西儀助商店 で、ボンドで有名なコニシ株式会社の創業者・小西儀助がたてたものです。

近代的なオフィスビルに囲まれた谷間に建っています。

小西家住宅

http://www.bond.co.jp/history/kyukonishi/pdf/konishi.pdf
上記に間取り図がありますよ~。

 1階は店・書院・仏間・社長室(茶室)・前栽・台所・炊事場・蔵などがあります。
2階は居住スペースのようで、子供部屋が3室、他10部屋もあります。

現在、旧小西儀助商店 の建物は2階建てですが、かつては3階建てだったそうです。
こちらに写真があります。→
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00520/

建てられたのは1900年で、建築当時、家族12人、従業員が35人、下女7、8人の合計52人が暮らしていたとのこと。

道修町の漢方薬屋さん 

道修町の漢方薬屋さん


②薬の神様

旧小西儀助商店から道修町通りに入っていくと少彦名神社があります。
道修町は製薬メーカーや薬問屋が多く、薬の神様として少彦名神を祀っているのです。
近代的なビル街ですが、古くからの習慣を大事にしている街なんですね。

少彦名神社 

少彦名神社

③春琴抄の舞台

少彦名神社の門前には春琴抄の碑が建てられています。
谷崎純一郎は道修町界隈を舞台として小説春琴抄を書いたんですね~。

春琴抄碑 

大阪道修町の薬種商鵙屋の次女、春琴(本名は琴)は9歳の頃に失明したが、三味線の道に生きる決意をします。
春琴の身の回りの世話をしてい丁稚の佐助は、春琴の弟子となります。
ところが春琴、気性が激しく若干暴力的なところがありましてw
弟子に撥をなげつけてケガをさせるということがときどきありました。
あるとき、誰かが春琴の屋敷に潜り込み、春琴の顔に熱湯をかけました。
春琴は顔に大やけどを負い醜い姿を見られるのを嫌がって佐助を近づけようとしない。
そこで佐助は自ら両眼を針でついて失明してしまう、というような話のようですね。

佐助は春琴の「醜い姿を見せたくない」という気持ちを思いやって「僕も目が見えないから容姿のことなど気にしなくていいんだよ」ということを示すために針で目をついたのではないでしょうか。

マゾヒズム? 谷崎純一郎、オタンビーだなあ~。

少彦名神社 絵馬

④江戸時代の女性はバリバリ働いていた。

春琴は明治19年に脚気で亡くなったという設定ですから江戸末期から明治にかけてが舞台なんですね。

ここで私が注目したのは、春琴が三味線の師匠として自立していたということです。
また小西儀助商店では下女7,8人がいたということで、江戸時代末から明治にかけて女性が働くことは当たり前だったように思えます。

https://edo-g.com/blog/2017/08/womens_work.html より引用

上のサイトには江戸時代の女性の職業として、次のようなものがあげられています。

接客職・・・・水茶屋・麦湯の女・・料理屋・留女
販売職・・・・糊売り・針売り・枝豆売り・鮎売り・大原女・楊枝屋
技術職・・・・産婆・髪結・手習いの師匠(寺子屋)・三味線の師匠御物師(着物を仕立てる)
芸人・・・・・瞽女(盲人女性の芸能者・三味線などを弾いて諸国をめぐった。)鳥追・手妻使い(マジシャン)
手工業・・・・養蚕・機織り・綿摘(内職として)
遊女・・・・・遊女・夜鷹・湯女・飯盛女・矢場女
スピリチュアル・・・占い師・巫女
その他・・・改め婆・乳母・洗濯屋・女中・下女(掃除・炊事などの雑用を行う)

上は町人の女性の職業ですが、農村や漁村でももちろん女性は働いていたはずです。海女もいたでしょうね。

専業主婦が定着したのは1950年代だと言われます。
ときどき「女は家にいて、男は仕事にいくのが日本の伝統」みたいなことを言う人がいますが、誤解だったんですね~。

江戸時代、明治時代は男女差別というよりも格差社会が問題であったと思います。
多くの人が会社勤めをするようになってから、男女差別は問題になってきたといわれます。

少彦名神社 神農祭-巫女  

少彦名神社 神農祭

⑤杉田水脈氏は「男女平等」という言葉の概念をもて遊んでいるだけで、労働の実体を把握していないのではないか?

男女差別がない状態とは、男と女が同じ仕事をするということではありません。
女性が好む仕事、男性に適した仕事というのもあると思います。
しかし、〇〇は女の仕事、△△は男の仕事、のように分類してしまうことは好ましくないです。

女性でも理数系が得意だったり、研究開発をやってみたいという人がいるので、女性だからという理由で雇用機会を奪ったりするようなことはよくないのです。

雇用機会が公平に与えられているか、給与格差はあるか、不当に昇進・昇給をおさえられていないか。
女子社員にのみ掃除・お茶くみを強要していないか。

また働く女性には出産・育児の権利が認められるべきと思いますので、これらをどう確保していくのか、といった問題も考えなければいけません。(専業主婦だめ、といっているんじゃありません。いろいろなライフスタイルを認めるべき、と言っています。)

杉田水脈氏は「日本に女性差別はない」と発言しています。
https://www.businessinsider.jp/post-172378
でも申し訳ないんですが、言葉の概念をもてあそんでいるだけのように思ってしまいます。

杉田さんは、雇用機会の公平さ、給与格差、出産・育児の権利などを十分に認識した上で、発言していないように思えます。

自分が専業主婦だから、男女平等などどうでもいい、とか、男はこうあるべき、女はこうあるべきと結論づけて多様性を認めない人もいますが(専業主婦が悪いといっているわけではない)
自分のことだけ考えないで、もう少し他の人のことも考えるべきではないかと思います。

また、働く女性が増えたことと男性の低賃金化を結びつける人がいますが、女性を雇用することと男性の低賃金化は本来別の問題です。
派遣が増えたり、企業の内部留保が増えていたり、社員と役員の年収格差などが問題であって、怒りの矛先を間違えています。

こちらは役員報酬が高い上場企業経営者 ↓
https://toyokeizai.net/articles/-/236206?page=2

少彦名神社 神虎 

⑥張り子の虎で有名な少彦名神社と朝護孫子寺

えー、それでは本題に入ります。(前置きが長い~)

少彦名神社のシンボルは張り子の虎で、神農祭では五葉笹に張り子の虎(神虎と呼ばれる)をとりつけたものを参拝者に授与しています。
江戸末期に大阪でコレラが流行した際、薬と一緒に張り子の虎を配ったとされます。

少彦名神社 蛭子 大黒

張り子の虎といえば、朝護孫子寺を思い出します。

朝護孫子寺 張り子の虎

朝護孫子寺

朝護孫子寺は聖徳太子が創建した寺です。

聖徳太子が信貴山で、物部守屋との闘いの戦勝祈願をしたところ、毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かったというのです。
そして、聖徳太子が先勝祈願をしたのが、寅年、寅日、寅の刻であったといわれます。

少彦名神社 神農祭 

少彦名神社 神農祭

⑦神農祭が広隆寺の聖徳太子御火焚祭と同じ日なのは偶然?

少彦名神社の神農祭は11月22日~11月23日です。
あれっ?聖徳太子をご本尊とする京都・広隆寺の御火焚祭も11月22日でしたね。
http://www.digistyle-kyoto.com/event/nenjugyoji/post_24.html

広隆寺の御火焚祭は聖徳太子の命日に行っているとされていますが、聖徳太子の命日は2月22日です。
それが広隆寺ではなぜ11月22日を聖徳太子の命日としているんんでしょうか?
11月の数字であるふたつの1を足すと2になるからかな?

そして少彦名神社の神農祭と広隆寺の御火焚祭が同じ日であるのが気になります。

神農さんとは中国の神で、少彦名神と習合されているのだと思います。どちらも薬の神なので。
そして神農さん=少彦名神はさらに聖徳太子と習合されているのではないか?と思ったりします。

少彦名神社 神農さん 

少彦名神社 神農さん


神農さん、コロナウィルスが早く収束するようにお願いします~





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[2020/02/21 17:53] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

獅子窟寺 『空海、星の神を鎮魂する修法を行う?』 

大阪府交野市 獅子窟寺

 
獅子窟寺-登り口 

ここが獅子窟寺参道の登り口。丁石がおいてありました。一丁は約109mなので、6丁は約654mです。

獅子窟寺-参道

長い坂道なので息がきれますよ。はあはあ。

獅子窟寺 牛臥石 
↑牛臥石。

獅子窟寺 仁王門あと 
↑ これは仁王門あと。
1615年、大坂夏の陣の際、獅子窟寺は豊臣方への加勢を拒否し、そのため焼き討ちにあって、全山十二院を消失したと伝えられます。
仁王門もこのとき焼失したそうです。


獅子窟寺-天福岩

到着ーーーー!

①八丁三所伝説

黄檗宗の僧・月潭が著した『獅子窟寺記』(1692年)には次のように記されているそうです。

獅子窟寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建した。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行った。


境内に空海が修法を行ったと伝わる獅子窟があるということなので、探してみましょうー。


獅子窟寺 巨石群3

下の地図に獅子の岩とあるあたりです。

向かって左の立て看板には「獅子の岩へお参りされるかたは石垣がくずれる恐れがありますので上のほうよりお参りください」と書いてあります。
写真右手に短い階段があって岩の上に登れるようになっています。

獅子窟寺 案内図


獅子窟寺-弁財天

↑ 登ったところにはこんな岩が。弁財天と記した旗が立てられていました。

獅子窟寺 巨石群2

↑ さらに木の根の階段を登っていくと

獅子窟寺 マラ石?

↑ これは巨大なマラ石だよねw

だけど、獅子窟がない~。
ここじゃなくて、奥の院のほうなのかな?と思って山道を歩いていきましたが、
帰宅後調べてみたら、このマラ石から一段おりたところ(急な段差があって階段もなかったです~)に獅子窟はあったようです(涙)。

獅子窟寺 巨石群

↑ これは写真Aの立て看板の後ろあたりにあった岩。どうやらこの岩の後ろあたりに獅子窟はあるみたいですね。

そういうわけで場所がわからなくて写真撮れなかったので、リンクをはっておきます(汗)。

https://omairi.club/spots/82293/point

空海は獅子窟で仏眼仏母の修法を行ったそうですが、仏眼仏母について、ウィキペディアには次のように記されています。

「仏眼仏母 (ぶつげんぶつも)、(梵: बुद्धलोचना [buddhalocanā])は、仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%9C%BC%E4%BB%8F%E6%AF%8D より引用

次のように記したサイトもありました。

「金剛界大日如来が、胎蔵界に入った瞑想した境地が、一字金輪(ボロン)ですが、
胎蔵界大日如来が、金剛界に入って瞑想した境地をあらわしたのが、仏眼仏母といわれています。」
https://ameblo.jp/ronjanzensin/entry-12145864529.htmlより引用

獅子窟が金剛界で、空海は胎蔵界大日如来としてここで瞑想したということでしょうか?
でも案内図 ↓をみると、「獅子の岩(女岩)と書いてあるので、獅子窟は胎蔵界で、空海は金剛界大日如来じゃないか、と思えます。(胎蔵界は女性の子宮を意味する。)

うーん?

交野市のhpには次のように記されています。

八丁三所

平安時代、私市の獅子窟寺(ししくつじ)で弘法大師が修行していた折、天から北斗七星が、星田の3か所に降りたという言い伝えのある場所。

その場所は、星田の光林寺(こうりんじ)、星の森、妙見山(みょうけんざん)で、それぞれの間の距離がほぼ八丁(約880m)にあたることから、名付けられたという。

https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2018031500015/ より引用

空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃だとする記事もありました。


②昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えた?

昔の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えていたのではないかと思います。

雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。

獅子窟寺から南へ直線距離で1kmほどの場所に磐船神社があります。
磐船神社はニギハヤヒを祀る神社で天の磐船という巨岩をご神体としています。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされ、この磐がその天の磐船だと考えられています。
ニギハヤヒが天の磐船を操って天下ったというのは、この巨岩は空から降ってきた星だと考えられたということではないかと思います。

そう考えると、ニギハヤヒが星の神とされていることも説明できます。

この磐船神社も獅子窟寺同様、巨岩がごろごろしておりまして、磐の間を通り抜ける岩窟廻りなどを体験することができますよ。
(雨天などは中止になることもあるので、確認の上おでかけすることをおすすめします。)

こちらからバーチャル岩窟廻りができます。↓

http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html

獅子窟寺 山道 
獅子窟寺奥の院へ向かう道

④星の神は敗者の神


記紀神話に星の神は一柱しか登場しません。
天津甕星という神さまのみです。

ですが住吉明神は星の神ではないかと考えられています。
住吉明神とは底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后の総称ですが、神名にある『筒』は星の神であることを示すものだという説があります。
『上記(うえつふみ)』という文書の中に、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などとあり、星の名前には必ずツツという音がついているためです。

記紀神話に星の神が一柱しか登場しないのは、星の神が抹殺されたのではないかともいわれています。

そして星の神・天津甕星は天照大神の葦原中国(日本列島。たぶん北海道・沖縄は省く)平定に最後まで抵抗した荒々しい神、と記されています。

天照大神は葦原中国を平定して天孫であるニニギを天下らせていますので、天津甕星は天照大神に負けた神だと考えられると思います。

そして大阪府交野市あたりは古には肩野物部氏が住んでいた土地であり、
物部氏の祖神で磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは神武より早く畿内に天下っていたのですが
のちに向からやってきた神武に服したと、記紀には記されています。

交野には星の伝説が数多くあり、星の町と呼ばれますが、
それは敗者・物部氏が住んでいた土地であり、またその土地の山には巨岩(昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えていたと思います。)が無数にあることに由来していると思います。

獅子窟寺-岩 
奥の院へ向かう道は巨岩がごろごろしていました。

⑤薬子の変

さて、空海はなぜ獅子窟寺で修法を行ったのでしょうか?

空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃ということでしたが
810年には薬子の変がおこっています。

806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位しましたが、809年に病を患い、病の原因を占ったところ、早良親王の祟りとでました。
早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして淡路に流されていく途中、憤死しました。
我が子に皇位をつがせたいと願う桓武天皇の陰謀との説もあります。
このような経緯をへて平城天皇は即位したので、早良親王の怨霊をそれは恐れたことでしょう。

そして、早良親王の怨霊を避けるため、同母弟の嵯峨天皇に譲位しました。

810年、平城上皇は平城京へ移りますが、上皇の寵臣である藤原仲成・薬子兄弟は複位をもくろんでいました。
そして平城京の平城上皇vs平安京の嵯峨天皇が対立し、二所朝廷と呼ばれる状態となってしまいます。

そして平城上皇は平城京遷都の詔を出すにいたりますが、嵯峨天皇はこれを拒否します。
平城上皇は挙兵しますがあっけなくとらえられ、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。

平城上皇は出家して空海より灌頂(密教の儀式。頭に水をそそぐ。)を受けています。

そのほか、大勢がこの事件に関与したとして処分を受けています。

獅子窟寺-岩2 
奥の院へ向かう道 巨岩

家系氏名官位など処罰内容
皇族平城上皇太上天皇自主的に出家、大権の喪失
皇族高岳親王皇太子廃太子
皇族阿保親王四品大宰員外帥へ左遷
皇族礒野王従五位上・図書頭伊豆権守へ左遷
皇族田口王従五位下土佐権守へ左遷
皇族真菅王従五位下壱岐権守へ左遷
藤原式家藤原薬子正三位・尚侍尚侍を解任、のち自殺
藤原式家藤原仲成従四位下・参議佐渡権守へ左遷、のち射殺
藤原式家藤原安継従五位下・大舎人助薩摩権守へ左遷
藤原式家藤原貞本従五位下・大蔵大輔飛騨権守へ左遷
藤原式家藤原永主日向国へ流罪
藤原式家藤原山主日向国へ流罪
藤原式家藤原藤主日向国へ流罪
藤原北家藤原真夏正四位下・参議伊豆権守次いで備中権守へ左遷
藤原北家藤原真雄従四位下・左馬頭伊予守へ左遷、のち備前守に転任
紀氏紀田上従四位下・尾張守佐渡権守へ左遷
紀氏紀良門従五位下・越後守肥前権介へ左遷
その他多入鹿従四位下・参議讃岐権守へ左遷、のち安芸守、讃岐権守に転任
その他菅野庭主正五位上・木工頭安房権守へ左遷
その他大中臣常麻呂従五位上・兵部少輔備前権守へ左遷、のち伊予守に転任
その他大伴和武多麻呂従五位上・左近衛少将武蔵権介へ左遷、のち日向権守に左遷
その他御室是嗣従五位上大隅権守へ左遷、のち筑後権介に左遷
その他御室氏継従五位上薩摩権守へ左遷
その他安倍清継従五位下・越前介安芸権守へ左遷、のち伯耆国へ流罪
その他当麻鱸麻呂従五位下淡路権守へ左遷
その他安曇広吉従五位下伊予権介へ左遷
その他百済王愛筌越前権少掾安房国へ流罪
その他永野浄津越前国へ流罪
その他伊勢安麻呂能登国へ流罪

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89 より引用

この大勢の処分された人々の霊を弔うため、空海は獅子窟で仏眼仏母の修法をおこなったなんてことないですかね~?

神泉苑御霊会で崇神天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂が慰霊されていますが、
観察使とは藤原仲成のことではないかなどともいわれていますよ。

神泉苑で慰霊されたということは、彼らは御霊(怨霊)だということになりますが。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。

嵯峨天皇代になにか天災・疫病の流行などがあり、それらは薬子の変で処分された人々の怨霊の仕業だと考えられたので、
空海が修法を行ったんだったりして?

獅子窟寺-岩3 
奥の院へ向かう道 巨岩

④奥の院は巨岩がごろごろしていた。

奥の院へ向かう道は細くて険しい山道もありました~。
が、木の幹に太いロープを結び付けてくださっている場所などもあり、心遣いに感謝です!

奥の院といっても、建物があるわけではなく、大きな岩がごろごろと存在しているのです。
そのひとつひとつが薬子の変で処罰された人々の霊のように思えてきたw

獅子窟寺-岩6

↑ 弥勒岩?鏡岩?

獅子窟寺-岩5

登れるようになっていました。

獅子窟寺-岩7  

⑤遭難しかけるw

そろそろ境内に戻ろうと引き返したのですが、どこでどう道をまちがったのか?歩いた記憶のない道にきてしまい・・・・
道が二股にわかれているところまで引き返し、もう一方の道を行ってみましたが、こちらの道も歩いた記憶がないw。
でも「私市駅→」と書いてある看板があったので、友人と相談してそっちのほうに行ってみよう、ということになりました。

途中、ものすごい急こう配があり、お尻で滑りおりるようにしておりてみると、「獅子窟寺→」の看板がありました。
ほっとしたのもつかの間、倒木で道が塞がれています~(涙)。

戻ろうかとも思ったけど、あの急こう配を上る自信がなかったので、獅子窟寺とは逆方向に道を下っていくことにしました。
道沿いにも巨岩が積み重なった場所などありましたが、不安な気持ちが勝ってしまって写真を撮るどころではありませんでした~。
日は傾いてくるし、こんなところで遭難したら恥ずかしいしー。
だけど20分くらい歩いたら、ガードレールが見えてきて、さらに歩くと民家が見えてきました。ヨカッタ、ヨカッタ。

私市駅付近に降りて来たのです。
そこから歩いて河内森近くの駐車場に止めてあった車まで戻りました。

みなさんも、獅子窟寺の奥の院に行かれる際はご注意ください!


獅子窟寺-岩4






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[2020/02/06 18:24] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

阪急電車 十三付近 『十三という地名は13番目の月の神からくる?』 


大阪市 阪急十三駅付近

阪急電車 十三大橋2

撮り初めは撮り鉄でw
  
①「十三という地名の由来


十三(じゅうそう)駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三(じゅうそう)という地名の由来についての詳しい説明がありました。
http://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html

①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。

②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため

③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国男氏)

④条里制の十三条(天坊幸彦氏)

⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)

⑥中津の富島という地名からくる。


十三渡し跡

このうち、②の重蔵という長者からくるという説については、こちらの記事でかきました。

なにわ淀川花火大会  『十三と近藤重蔵』 
重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
神津神社 十三戎(とみえびす) 『トミヒコと土左衛門と戎の関係』 

石川県に重蔵神社という神社があるのにはびっくりです。
重蔵とは十三のあて字であり、十三はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)やドザエモン(土佐衛門)の事だと思います!

神津神社 
神津神社

②13時は『頭のおかしい人間』


今日は十三について、重蔵=トミヒコ=ドザエモンとは別の仮説についてお話ししたいと思います。

随分以前ですが、ネットでこんな内容の記事を読みました。
アドレスをメモっておかなかったので、いま探してもみつかりません。(すいません!)

東京スカイツリーの高さが634mなのは、は武蔵(ムサシ)という地名の語呂合わせである。
中国でも同様の語呂合わせが行われている。
『8』が縁起がいいとされるのは、広東語で『発財(儲かりまっか」)』の『発』の発音に近いから。
『4』は『死』に通じるので縁起が悪い
『54』は『我死(私は死ぬ)』に通じるのでやはり縁起が悪い。
『250』は『間抜け』に通じるので料金設定に250は用いない。
上海では『13点』といえば『13時』という意味だが、時計の表示は12時までしかない。
そのためで『13時』は『頭のおかしい人間』をさす。

阪急電車 十三大橋3

③欧米で忌まれている13という数字


欧米では13という数字は大変忌まれている数字です。
なぜ欧米で13が忌まれるのかというと、イエス・キリストが磔刑になったのが13日の金曜日だったからだとも言われています。
しかし、共観福音書では 15 日、ヨハネによる福音書では 14 日となっていて実際には13日ではないとされます。

他には次のような説があります。

①キリストの最後の晩餐に 13 人の人がいたため。
②北欧神話の、12 人の神が祝宴をしていた時、13 人目の招かれざる客・ロキがやってきてバルドルを殺したという伝説からくる。
③キリスト教から追放された魔女・フリッグが 11 人の魔女と悪魔を招いて毎週金曜日に悪事を企んでいた。
④フィリップ 4 世がテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕したのが、1307年10月13日の金曜日だった。


十三大橋北詰 地蔵 
十三橋北詰 交通安全地蔵尊

④十三詣

日本では13日は虚空蔵菩薩の縁日とされており、関西では4月13日に13歳になった子供が虚空蔵菩薩を参拝する『十三詣』が行われています。

十三詣のルーツは京都の法輪寺だと思いますが、法輪寺の前には桂川が流れていて渡月橋という橋がかけられています。
法輪寺で十三詣をした子供は橋を渡りきるまで法輪寺を振り返ってみてはいけないと言われています。
この言い伝えは、黄泉の国へイザナミを迎えにいったイザナギの話を思い出させますね。

イザナギはイ死んだイザナミを迎えに、黄泉の国へ行き、イザナミににもとの世界へ帰ろうと言った。
イザナミは黄泉の大王に相談するので、しばらく待っているように、またその間決して振り返って私を見ないでくださいとイザナギに言った。
ところがイザナギは我慢できなくなって振り返ってイザナミの姿を見てしまう。
イザナミの体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは恐ろしくなって逃げ帰り、姿を見られたイザナミは怒ってイザナギを追いかけた。
イザナギはイザナミに桃の実をなげつけるなどして、なんとかもとの世界に帰ってこれた。


つまり、法輪寺は黄泉の国、地獄で、渡月橋の下を流れる桂川は三途の川のイメージなのだと思います。

渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

⑤大国主は根の国を振り返らずこの世へ戻った?


また、大国主が根の国(黄泉の国と同一のものだと考えられている)を訪れるという話があります。

大国主が根の国を訪れ、根の国の大王・スサノオに様々な試練を与えられる。
しかし最終的には大国主はスサノオの太刀と弓矢を手に入れ、スサノオの娘・スセリヒメを連れて根の国を逃げ出した。
スサノオは逃げる大国主に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」と言った。

おそらくスサノオは根の国をふりかえらずにこの世へ戻ってきたのでしょう。
それでスサノオは太刀と弓矢を手に入れたばかりか、スサノオから知恵も授かったのだと考えられますね。

法輪寺の十三詣はこれを再現した行事なのではないでしょうか。
法輪寺が黄泉の国=根の国だとしたら、やはり十三詣をする13日は忌むべき日だといえるのではないでしょうか。
13日が忌むべき日だからこそ、参拝する習慣が生じたとも考えられます。

とすれば13を忌むべき数字だとするのは世界共通だということになるかもしれませんね。

淀川 ヘリコプター

⑥イエスの12人の弟子は12か月を表している?

キリストは太陽を比喩したものだとする説があります。
キリストの誕生日が12月25日とされているのは、ミトラ教の冬至祭に便乗したものだとされます。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことです。

ここからキリストは太陽、磔刑に用いられた十字架は南十字星を、キリストが死後3日後に復活したとされるのは冬至に南中高度が最も低くなった太陽がその3日後から再び南中高度をあげていくことを意味しているとする説がありますよ。

ということは最後の晩餐に登場するイエスの12人の弟子は1月から12月までの月を表しているのではないかと思ったりします。

十三大橋下の通路(中津側) 
十三大橋下のトンネル状の通路に夕照がさしこんだ!

⑦イエスの弟子は13人いる?

ところが!
ダビンチの最後の晩餐の素描にはイエスを除いて、なんと13人の人物が描かれていて一人多いのです!

死後3日目に復活したとされるイエス・キリストは双子であったという説があります。
その説によると、キリストには双子の弟があり、十字架にかけられたのは弟のほうだったというのです。

磔になったイエスは死ぬ直前、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』とに叫びました。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、『わが神、わが神。どうしてしをお見捨てになったのですか』と訳されています。
エリとはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようですが
『高い』『より上にある』とは『兄』のことではないか、イエスのかわりに磔になったイスキリが『兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるのか』と言ったのではないか、というのです。

12使徒については次のようになっています。

マルコマタイルカ使徒言行録ヨハネ
シモン・ペトロ(B1)シモン・ペトロ(B1)シモン・ペトロ(B1)ペトロヨハネの子シモン・ペトロ(B1)
ゼベダイの子ヤコブ(B2)ゼベダイの子ヤコブ(B2)ゼベダイの子ヤコブヤコブ(B2)ゼベダイの子たち(!)(?)
ヨハネ(B2)ヨハネ(B2)ヨハネヨハネ(B2)イエスに愛された弟子(?)
アンデレ(B1)アンデレ(B1)アンデレ(B1)(!)アンデレ(!)アンデレ(B1)
フィリポ(!)フィリポ(!)フィリポ(!)フィリポ(?)フィリポ
バルトロマイ(!)バルトロマイ(!)バルトロマイ(!)バルトロマイ(!) 
    ナタナエル
マタイ(!)徴税人マタイマタイ(!)マタイ(!) 
トマス(!)トマス(!)トマス(!)トマス(!)ディディモ・トマス
アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!) 
タダイ(!)タダイ(!)   
  ヤコブの子ユダ(!)ヤコブの子ユダ(!)(イスカリオテでない)ユダ
熱心者のシモン(!)熱心者のシモン(!)熱心党員と呼ばれたシモン(!)熱心党のシモン(!) 
イスカリオテのユダイスカリオテのユダイスカリオテのユダ イスカリオテのシモンの子ユダ
   マティア 

注:

(B) は兄弟関係を表す。
  • (!)は、ただ1回のみの言及。
  • (?) は、他の文書内の使徒と同一人物であるかわからないもの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92#十二使徒 より引用

イエスの十二使徒は文献によって微妙に違っているようです。
そして十二使徒のひとりにトマスという人物がいますが、トマスとはアラム語で双子という意味です。
教会非公認の外伝といわれる福音書には「トマスはイエスの双子」と記されているそうです。

もともとイエスの使徒は12人ではなく13人であったのではないでしょうか。
つまり、1年12か月のところ、そこからはみでた13番目の月を擬人化した使徒がいた。
そしてそれがイエスの双子のトマスだったということなのでは?

イエスの十二使徒が文献によって異なっているのは、13人のところを無理やり12人に収めようとしたところからはみだしてしまった人物が生じたからではないでしょうか?

 阪急電車 十三大橋4

⑧記紀は聖書に似ている。

飛鳥昭雄さんによると、記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあるそうです。

聖書1日目/ 神は光と闇を分け光を昼、闇を夜と呼んだ。
古事記神世第1代/天之御中柱主神
※キリスト教の三位一体説は『生命の樹』で説明される。
生命の樹は三本の柱からなるとされ、中央が最も高くなり、左右に同じ高さの柱がある。
中央を「均衡の柱」左を「慈悲の柱」右を「峻厳の柱」と言う。
神を柱と表現するのはキリスト教も日本神道も同じ。(左右は均衡の柱からみて)
「天之御中柱主神」というのは生命の樹の均衡の柱を意味するのではないか。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応する。

聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応する。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造った。造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏しは賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したのである。 

キリスト教は1549年フランシスコ・ザビエルによってもたらされたとされますが、5世紀ごろ日本にやってきた渡来人の秦氏がもたらしたんじゃないかという説がありますよ。
秦氏は朝鮮からやってきたと記紀には記述がある。
しかし、秦氏の首長に弓月君という人物がおり、秦氏のもともとの故郷は中央アジアにあった弓月王国というキリスト教国ではないかとも言われています。

秦氏の氏寺の広隆寺は太秦寺ともいいますが、大秦寺とは中国におけるネストリウス派キリスト教(景教)の教会のことです。
太秦と大秦は、点があるかないかの違いしかありません。

石切神社 
石切神社

⑨「虚空見つ日本の国」と発言したニギハヤヒは虚空蔵菩薩のイメージと重ねられた?

13日を縁日とする虚空蔵菩薩はイエスの身代わりになって死んだイエスの双子の弟とイメージが重ねられているのではないでしょうか。。

ニギハヤヒは天磐船を操って大和に天下り、『虚空見つ日本の国』と言っています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武は日向から東征するとき「東にはニギハヤヒがすでに天の磐船を操って天下っている」と発言しています。
ここから神武以前に物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒは太陽神の地位を神武に譲った神だと言えると思いますが、ニギハヤヒと虚空蔵菩薩はイメージが重ねられているのではないでしょうか。

すなわち、虚空蔵菩薩=ニギハヤヒは1年の中で存在しない13ヶ月目の神ということなのではないでしょうか?

ニギハヤヒを祀る神社に石切神社がありますが、青森県戸来村にはイエスの弟・イスキリがイエスの身代わりになって磔になったと伝わっています。

なぜトマスではなく、イスキリという名前になっているのでしょうか?
石切を東北の人が発音するとイスキリとなりそうです。
ニギハヤヒ=石切さんはイエスの双子の弟ということで、イスキリとなったんだったりして?

石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 

そして十三という地名は、イスキリ=石切さん=ニギハヤヒが十三番目の月野神であるところからくるのかもしれません。

十三=トミ=トミヒコ=ナガスネヒコ(トミヒコはナガスネヒコの別名)であるとも考えられますが
ナガスネヒコはニギハヤヒを神と奉じており、関係が深いです。


阪急電車 十三大橋


  
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[2020/01/05 11:57] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

野崎観音(慈眼寺) 『深野池は調整池だった?』※追記あり 

大阪府大東市 野崎観音 (慈眼寺)

野崎観音 
※南太郎さんからメールでアドバイスをいただいたので(ありがとうございます!)追記を入れておきます。
(赤字部分)

①野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~


野崎小唄ってご存知ですか?
東海林太郎さんが歌ってヒットした曲で、「野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~」と歌います。

野崎まいりとは、5月の無縁経法要(有縁無縁すべてのものに感謝の読経を捧げる行事)に野崎観音を参拝することをいいます。

「屋形舟でまいろ」とはどういうことでしょうか?
車で野崎観音までやってきましたが近くに屋形舟が浮かぶような川はありませんでしたが?

野崎観音2

②中世から江戸時代に存在していた深野池

実は中世から江戸時代までこのあたりに深野池という池がありました。
この池は寝屋川市南部~門真市東~大東市中央部~東大阪市北部~四条畷市西部にまたがる大変大きな池だったそうです。
大阪から屋形船で川をさかのぼり、深野池までいく参拝者が大勢いたそうで、「野崎まいりは屋形船でまいろ」と歌っているわけですね。

1689年貝原益軒の『南游紀行』に次のように書かれているそうです。(要約文/改行は筆者による)

「ふかうの池は深野池と書く。
池の広さは南北2里(1里は4km弱)、東西1里、湖に似ている。
その中に島があり三ケという村がある。
三ケの村には漁家が7-80戸あり田畑もある。
この島は南北20町(1町は100⃣m強)、東西5-6町ある。
この池には鯉、鮒、鯰、はす、わたか、えび、鰻、つがに等が多い。
漁船が多く毎日漁に出て魚を大坂に売る。
また、蓮、芡実、葦が多く、皆採り用いて助けとする。
ことに菱が多く、これを採って飯や団子や粥にして食べたり、菓子にしたり売ったりする。
深野池の周りには約42村があるという。この池の水は大和川に流れる。
川下より毎日商船が訪れ、大坂までは2里ある。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%87%8E%E6%B1%A0 よ引用

Old yamato riv

 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_yamato_riv.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Old_yamato_riv.jpgよりお借りしました。
枚岡市 [Public domain]


③深野池が失われたことで水害がおきた?

1704年、大和川の付け替え工事が行われ、大和川水系の水が流れ込まないようになりました。
水位が減少したため真宗大谷派・難波別院などによって新田開発が行われ、深野池は失われたということです。

上の地図の「新開」と書いてある池は新開池で、現在の鶴見区東南部~東大阪市北西部~大東市南西部に広がっていました。

太古には大阪湾はこのあたりまで入り込んでいたのですが、淀川水系・大和川水系から大量の土砂が運ばれ、淡水化して河内湖になりました。
中世になると深野池・
新開池という二つの大きな池になりました。

新開池の出口は西の徳庵で、この場所は土砂が堆積していたこともあって、頻繁に洪水が起きていました。
これを解消するため1655年、徳庵から西の今福まで運河が掘られました。(徳庵井路)
1661年、新開池の中に堤を作り六郷井路の水路、五箇井路がつくられました。

1704年の
大和川の付け替え工事では新開池の推量も減少し、鴻池善右衛門宗利が伊勢より農民を移住させて開墾しまいた。(鴻池新田)

ですが、その後、大雨が降ると生駒山から大量の水が大東市中部あたりの土地の低い場所に集中し、川が決壊して浸水してしまう被害がたびたびおこりました。
特に1972年の水害は大東市広範囲に被害をもたらし裁判にもなりました。
この裁判は大東水害訴訟と呼ばれ、被害をうけた住民らが国・大阪府・大東市に提訴しました。
結果は住民らの敗訴でした。

大東市は上の地図の北条・野崎・南条・寺川・中垣内・岸和田・赤井などのあたりです。
深野池があったあたりで、深野池の跡地だったため土地が低かったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

野崎観音より大阪方面を望む2 
野崎観音よりのぞむ  中世~江戸時代にはここから深野池が見えたことでしょう。

また、深野池は調整池の役割を荷っていたのかも、と思います。

調整池とは集中豪雨などがあった際、一時的に水をためておく池のことです。
調整池に水をためておくことで、河川の洪水・決壊を防ぐわけです。

深野池は大きな池だったので、貯水能力も相当あったことでしょう。

現在、この地域では遊水池(洪水時、河川の流水を一時的に氾濫させる土地)として深北緑地がつくられました。
また調整池がつくられ、中世から江戸時代にあった深野池と同じ名前が付けられました。

最近は公園や駐車場が洪水時に遊水地として機能するようにつくられたものもありますね。

2019年の台風19号で日産スタジアムも冠水しましたが、もともと大雨の時などに水をためる遊水地となるように設計されていたそうです。
https://togetter.com/li/728338

野崎観音より大阪方面を望む 
野崎観音よりのぞむ 中世以前にはここから河内湖が見えていたのでしょうね。

野崎観音-夕景




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[2019/12/26 21:02] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

交野天神社 紅葉 『継体天皇は紀氏と関係ある?』 


大阪府枚方市 交野天神社

交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしてます。
『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられています。
天児屋根命は中臣氏の祖神で、中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれています。
菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没しました。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られました。

そう考えると、藤原氏の祖神の天児屋根命と菅原道真を祀っているのはおかしなことに思えます。
しかし、ずっとのちの時代になって、そういった藤原氏と道真の因果関係の記憶などが人々の心の中から薄れてからのち、ともに祀られるようになったのかもしれません。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていました。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるという伝承もあるのです。

継体天皇の和風諡号(しごう)は日本書紀は男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記は袁本杼命(をほどのみこと)と記しています。

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われています。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことです。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているようです。

「枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。」

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

また枚方に茄子作という地名がありますが、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

鈴は土で作られることもありますが、金属で作られることが多いです。

また、鈴は錫をあらわしているのかもしれません。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがあります。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

③継体天皇即位は新王朝か?

継体天皇は応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、.越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったとされます。

継体天皇の即位について、次のように記したサイトがありました。

 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。
彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。
そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。
そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。
男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/umakai.htmlより引用

大神社 
交野天神社 大神社  御祭神は天照大御神 と 神武天皇

まとめると次のような内容になるかと思います。

a.男大迹 の王(のちの継体天皇)は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた。
b.男大迹 の王57歳のとき、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去して後継者がなかった。
c.大伴金村らは仲哀天皇の末裔・倭彦王を丹波から迎えて後継者にすることにし、迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった
d.、大伴金村は応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送った。
e.男大迹 の王も討伐軍かと疑い、使者を河内馬飼首荒籠のもとへ送った。そして軍が討伐ではなく迎えのためであることを確認し樟葉宮で即位した。

継体という漢風諡号は奈良時代になってつけられたものですが、新王朝という認識があったことから『継体』という諡号をつけたのではないかという説があります。

これが正しければ、よく右寄りの人がいう「一系万世」は事実ではないということになります。

継体天皇即位は新王朝なのでしょうか?
私はこの説はありえると思います。

交野天神 説明板

交野天神社 説明板

④神武天皇=応神天皇?

初代神武天皇は日向から東征して畿内入りしたとされます。
一方、15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが、このルートが神武東征ルートと重なるところから
二天皇は同一人物ではないかとする説があります。

⑤応神天皇は二人いた?

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、
気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思ったりするのですが?

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

⑥継体天皇はイザサワケ大神と関係がある?

気比神宮は福井県敦賀市にあったのでしたね。
そして、応神天皇の5世孫である継体天皇は越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったのでした。
継体天皇はなぜ、越前三国で育ったのでしょうか?
それは継体天皇がイザサワケ大神と関係のある神だからではないでしょうか?

継体天皇が関係あるのは、もともとのイザサワケ大神なのか?それとも名前を交換したあとのイザサワケ大神なのか?

日本書紀は名前を交換するという説話を掲載するなどして、読者を混乱させようとしているように思えます。

⑦樟葉宮伝承地と貴船神社

②のところに貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたっています。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇です。
兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないでしょうか。

なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地にその貴船神社があって継体天皇を祀っているのでしょうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されています。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されていますが、「古代京都府南部」としるされています。
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようです。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もありました。

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代ですが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

そして継体天皇が樟葉宮で即位したのも紀氏と関係があるような気がしたりもします。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼






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[2019/12/25 21:42] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

金剛寺 紅葉 『改竄された神話?神武東征はニギハヤヒ東征だった?』 


大阪府東大阪市 金剛寺

①石切駅から金剛寺へ

石切劔箭神社→石切参道商店街→石切大仏→千手寺とやってきたところまでお話ししました。

石切の旅、過去記事はこちらです。

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 
石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺をさらに昇っていくと石切駅です。

石切駅 

石切駅

石切駅からさらに坂道を登っていくと観光客の姿はまばらに。
でも、ここから先にもお社などがたくさんあります。

黒熊明神、赤目明神、太郎明神 
黒熊明神、赤目明神、太郎明神 

熊繁大神 

熊繁大神

白光大神2 
白光大神

石光観世音 
石切観世音

途中であったお姉さんが(たぶん撤饌の)綿菓子をくれました。(ありがとうございます!)
そして「ここから20分ほど行ったところに切奥之院金剛寺というお寺があるよ」と教えてくれたので、山道を登っていくことに。

白光大神 

白光大神から金剛寺へ向かう道

金剛寺 一の鳥居 

どんどん山道になっていきますよ。鳥居には白姫大神と書いてありました。

金剛寺 二の鳥居 
まだまだ登っていきますよ~。

金剛寺 

これはなんでしょう?庚申塔かな?文字が刻んでありましたが、植物が絡みついたりしていて全然読めませんでした~。

金剛寺3 

ようやく金剛寺に到着しました。

金剛寺は明治後期の創建で弁財天をお祭りしているそうです。
創建は比較的新しいですが、古より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があるとのことです。
(写真撮り損ねました~。こちらの方のブログに写真がありましたのでリンク貼らせていただきます。
http://pachyderm.blog54.fc2.com/blog-entry-192.html

②神武天皇腰掛石

この神武天皇腰掛け石について、次のように記したサイトがありました。

A.また当山には開基以前より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があり、
これはその昔、神武天皇が日本国を統一せんが為、港より討伐に向かわれし際、
その戦いが思うに任せず、石に腰掛けて思案の末、
東(太陽)に向かって矢を放ってはならぬと、この地を下り、東側に回られた。


https://blog.goo.ne.jp/051006250510/e/52c784b802196fee920f2807b0a5b4b2 より引用

ウィキペディアには次のように記されています。

B.戊午年2月、彦火火出見尊たちは吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。
3月に河内国日下邑の青雲白肩津から龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。
そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。
戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 より引用

Bのウィキペディアの記事は記紀をもとに記したものだと思います。

白肩津は東大阪市日下町あたりだと考えられています。
胆駒山は生駒山のことです。
孔舎衛坂は大阪府と奈良県の境の坂。現在の暗)峠または善根寺越ではないかといわれています。 
金剛寺は石切劔箭神社から坂を上った東あたりにあります。(地図では生駒山上遊園地の「生」の文字の西あたり)






ここで注意したいのは、古代の地形が現在とはかなり異なっていたということです。
大阪湾は大きく現在の内陸部にまで入り込み、河内湖とよばれていました。
現在の大阪市は上町台地あたりのみが陸地として存在していたのです。
そして現在の東大阪市は海からは遠く離れていますが、古代にはこのあたりまで海が迫ってました。

孔舎衛坂は額田駅と平岡駅の中間あたりから東に向かってのびる道、または日下町の北が善根寺町で、そのあたりから東に延びる道だと考えられています。

金剛寺2

③食い違う伝説

A・Bを読み比べて疑問に思うことがあります。
現在の石切劔箭神社や金剛寺のあたりは長髄彦が支配する土地で、神武はその長髄彦との闘いに負けたのです。
それなのに、長髄彦の土地にある石に腰かけて考える、などという余裕があったのでしょうか?

また、Aの伝説では「(神武は)この地を下り、東側に回られた。」とあります。
石切の東は奈良なので、石切の山をおりて東にある奈良に回ったという意味かと思われます。

ところがBの伝説では「彦火火出見尊(神武)は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。 」となっています。

草香津は白肩津のことだと考えられています。
神武は船で東征したと思われますので、船をつないだ港に戻ったのでしょう。
つまり、奈良のある東にではなく、西にある河内湖の草香津に向かい、そののち、海路南へ向かったということです。

そののち、神武は陸路熊野越えをし、奈良側から西に向かって長髄彦軍と対峙するのです。

このAとBの差はどこから生じたのでしょうか?

石切奥之院弁天瀧 

石切奥之院弁天瀧と書いてあります。

④神武東征はニギハヤヒ東征だった?

神武東征といいますが、実はそれはニギハヤヒの東征ではないかと私は思ったりします。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より、畿内に天下っていたと記紀(古事記・日本書紀)には記されています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

そして15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートがと神武東征ルートと重なるので、神武と応神は同一人物とする説があります。

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。
ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。
ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思えます。


四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

そしてすでに述べたように応神=神武と考えられるわけですが、応神天皇は渡来人の神の可能性が高い伊奢沙和気大神と名前を交換しています。
神武は本当は対馬海流に乗って朝鮮半島から敦賀にやってきた渡来人の伊奢沙和気大神であったのが、物部氏の神・応神天皇と名前を交換して大和朝廷の支配者になったんだったりして?

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされます。
そしてその後大和国(奈良県)に移ったとされます。

ニギハヤヒが天下ったとされるのは大阪府交野市の磐船神社で、石切神社の北にあってそんなに離れた場所ではありません。
そして磐船神社の東は奈良です。

Aの伝説「この地を下り、東側に回られた。」の主語は神武ではなくニギハヤヒとしたほうがぴったりきそうに思えます。

そもそも石切神社の御祭神はニギハヤヒですし、ニギハヤヒが磐船神社から南の石切あたりにやってきて、ここから東の奈良に移ったとも考えられるかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

⑤ニギハヤヒは九州から畿内へやってきた。

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峯に天下ったとされますが、いったいニギハヤヒはどこからやってきたのでしょうか?

これについて船場俊昭さんは九州・筑紫地方としておられます。
ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが
筑紫地方は物部氏が住んでいたところで、北九州筑後平野と大和周辺には酷似した地名が80か所以上もあるとのことです。

築後春日田原山田市上山田玖珠天瀬久留米朝倉加美三輪雲堤筑前高田小田三井池田平群郷野方草ヶ江
大和春日田原山田上山田国栖天ヶ瀬久米朝倉賀美三輪雲梯大和高田織田三井池田平群郷額田日下

そして、九州からやってきた物部氏が故郷の地名を大和につけたのではないかというのです。
しかし、大和の地名が先にあって九州の地名があとについたという可能性もあるので、検証が必要ですね。

石切駅付近より 
石切駅付近より大阪方面を望む。かつてはここから河内湖が見えていたのでしょうね。





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[2019/12/24 17:59] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 



大阪府東大阪市 千手寺


石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。 石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると・・・石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 

石切大仏があります。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうです。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板がありました。店自体はありませんでしたが、看板のみ残してあるのでしょう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺があります。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがありました。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とありますが、これは惟喬親王のまちがいでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されていますが、生没年も同じですし、文徳天皇の第1皇子というのも同じです。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としていますが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれませんが、ネット上でそういった表記は他に見たことはありません。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれません。

ですが、維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないでしょう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記します。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

③惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とあります。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1641.html?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8


ですが「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも書いてありませんし、他のサイトでもそういうことがあったと書いてある記事は読んだことがありません。

上の記事でも次のように記しています。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思います。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、もう少し詳しく記しておきます。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめました。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。

平家物語などに次のように記されています。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではありません。というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからです。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かでしょう。

千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣でした。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしています。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれています。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていました。

私は彼の説を支持します。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されています。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。

染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)


「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。

娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)


この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました。
つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑥なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているの?

また、枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思えます。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

また大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのでしょうか?
鍛冶屋がつくるものは、現在では包丁などが主ですが、かつては刀や弓矢などの武器をつくっていました。

惟喬親王と在原業平は挙兵するため、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのではないでしょうか。

粟辻神社

粟辻神社

⑦腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石がありました。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもあります。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。

道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石があります。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされます。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かります。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣がありました。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけますが、これが幣だと思います。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていただと思います。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということでしょう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れました。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になりました。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進でした。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言しました。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟です。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていました。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡しました。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられました。

⑦菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られています。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だといいますが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわかりませんでした~。

深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげてもよくってよ」と言われて実行したのですが、99日目の夜に死んでしまったとされます。

深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれています。

すると、官公腰掛石は官公の恨みが籠った石ではないかと思えます。
そして在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないでしょうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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[2019/12/23 16:17] 大阪府 | TB(0) | CM(0)