滋賀県湖南市 長寿寺
2017年11月中旬 撮影
①長寿寺は阿倍内親王誕生に感謝して創建された寺?長寿寺は奈良時代、聖武天皇の勅願によって良弁が紫香楽宮の鬼門封じとして創建したと伝わります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)上記ウィキペディアには、聖武天皇の皇女誕生の際、七堂伽藍を建立して長寿寺と名付けたとあります。
皇女誕生の際に七堂伽藍を建立したという話は、私は初めて聞きました。
(皆さんはこういう話を聞いたことがありますか?もしあればぜひ教えてくださいね!)
のちに天皇に即位した皇子誕生が、みほとけの御加護を受けたものであるとして、寺院が建立されたり伽藍整備されたという話はあります。
岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 ↑ こちらの記事では
813年、嵯峨天皇が第二皇子・仁明天皇の誕生を感謝して岩船寺の堂塔伽藍の整備を行ったことなどを書きました。
聖武天皇の皇女としては、光明皇后との間に阿倍内親王、県犬養広刀自との間に井上内親王、不破内親王がいます。
聖武天皇の3人の皇女のうち、阿倍内親王は史上初にして史上唯一の女性皇太子となり、孝謙天皇となっています。
長寿寺の伽藍整備は阿倍内親王誕生に伴って行われたものではないかと思います。
②今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!孝謙天皇は淳仁天皇に譲位しますが、淳仁天皇・藤原仲麻呂との関係が悪化。
ついには「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!」と宣告しています。(かっこええ~)
そして藤原仲麻呂の乱を制圧し、淳仁天皇は廃されます。
こうして孝謙天皇は再び皇位について称徳天皇となりました。
③女性天皇はいたが天皇家は男系継承最近、女性天皇を認めるか認めないか、というような議論があります。
女性天皇賛成派は古代に女性天皇がいたことなどを賛成の理由としてあげたりしますね。
しかし、御存知のように日本の女性天皇はすべて中継ぎであり、天皇家は男系で継承されています。
持統天皇から光仁天皇までを表にまとめました。↓ (女性天皇は飛鳥時代に推古天皇・皇極(斉明)天皇、江戸時代に明正天皇、後桜町天皇もいます。)
代 | 天皇 | 性別 | 父 | 母 | その他 |
41 | 持統 | 女 | 天智天皇 | 蘇我遠智娘 | 天武の皇后。草壁皇子を設けるが草壁は早世。孫の文武を即位させるため中継ぎで即位 |
42 | 文武 | 男 | 草壁皇子 | 元明天皇 | |
43 | 元明 | 女 | 天智天皇 | 蘇我姪娘 | 草壁皇子の皇后。文武の母。文武が早世したとき、孫の聖武がまだ幼かったため中継ぎとして即位 |
44 | 元正 | 女 | 草壁皇子 | 元明天皇 | 文武の姉。文武の子(元正の甥)聖武がまさ幼かったため中継ぎとして即位。生涯独身。 |
45 | 聖武 | 男 | 文武天皇 | 藤原宮子 | |
46
| 孝謙
| 女 | 聖武天皇 | 光明皇后 | 聖武天皇には県犬養広刀自との間に安積親王があったが、女性の孝謙が即位。 安積親王の母親が藤原氏でないためか?生涯独身。 |
47 | 淳仁 | 男 | 舎人親王 | 当麻山背 | 父親の舎人親王は天武天皇の皇子。 |
48 | 称徳 | 女 | 聖武天皇 | 光明皇后 | 孝謙と同一人物。天武系天皇ここで絶える。 |
49 | 光仁 | 男 | 志貴皇子 | 紀 橡姫 | 志貴皇子の父親は天智天皇。 |
現在の皇太子徳仁親王の子供は敬宮 愛子内親王だけですね。
そこで敬宮 愛子内親王が女性天皇となり、さらに敬宮 愛子内親王が結婚されて親王をお産みになられたとしましょう。
敬宮 愛子内親王がお産みになられた親王が仮に皇位についたとすると、男系継承だった皇位継承の伝統が大きく変わってしまいます。
あくまでも、天皇家の血筋の男性の子孫が皇位継承するというのが日本の伝統なのです。
また、敬宮 愛子内親王の配偶者に権力が生じることにもなります。
それゆえ、女性天皇に反対する人々がいるのでしょう。
私?私は天皇制そのものが反対なので、女性天皇に賛成だとか反対だとかいうような意見はありません(笑)
これについてはまた書く機会があるかもしれません。
④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇に。たぶん、そういう皇位継承のゴタゴタを避けるためだと思いますが、独身で即位したふたりの女性天皇、元正・孝謙(称徳)は生涯独身でした。
(のちの明正・後桜町も生涯独身。)
そして天武系の天皇は称徳で絶えてしまい、49代天皇には天智天皇の皇子・志貴皇子を父親に持つ光仁天皇が即位します。
⑤天智系天皇への転換は藤原氏の策略?天武系天皇の血筋が絶え、天武系天皇へ転換したのは、藤原氏の策略だったのではないかと思ったりします。
というのは大鏡・公卿補任・尊卑分脈などの史料に、藤原不比等は天智天皇の後胤だと記されているのです。
天智天皇は藤原鎌足に中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。
真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。
とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。
実際、称徳天皇の次代の天皇に天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。
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[2017/11/15 15:43]
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