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善峯寺 紅葉 『藤原茂子のマタニティーブルーの原因は?』 

京都市西京区 善峯寺
2010年11月下旬撮影


善峯寺 経堂 紅葉2

①藤原茂子、マタニティーブルーに悩む。


賀茂神社地田の田主が苗を植えると、苗が一夜にして槻(けやき)の木へと変わりました。
やがて槻の木は朽ちて倒れましたが、木から千手観音の真言が聞こえてきました。
不思議な木だということで、誰も斬ろうとしませんでした。

寛弘年間(1004~1012)、賀茂神社の神主は槻の木を斬って行円上人に与えました。
行円上人はこの木で千手観音を刻み、行願寺(革堂)に奉安しました。
このとき余った木材で仁弘法師が千手観音を刻み、洛東の鷲尾寺に奉安しました。

後朱雀天は「後世の利益のために鷲尾寺の千手観音像を源算開基の良峯に移すように」と夢の中でお告げを受けました。
こうして1042年、鷲尾寺の千手観音は当山に遷座されました。

1053年、尊仁親王(後の後三条天皇)の妃、藤原茂子は御懐妊しましたがマタニティーブルーに悩み、善峯山の観音に祈りました。
すると茂子の夢の中に童子があらわれ、腹を撫でました。
目が覚めるとマタニティーブルーは消え失せ、安産で白河天皇をお産みになりました。


白河天皇は自分の誕生は善峯寺の千手観音のおかげであるとし、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、二王門、鎮守七社を建立されました。

善峯寺 経堂 紅葉

②身分の低い女性しか入内させられなかった尊仁親王

この伝説に出てくる藤原 茂子(?年~1062年)は中納言藤原公成の娘として生まれました。
公成の姉妹、祉子は大納言・藤原能信の妻でしたが、二人の間には子供がなく、茂子は藤原能信の養女としてひきとられました。
そして1046年、後冷泉天皇の皇太子・尊仁親王(後冷泉天皇の異母弟。のちの後三条天皇)の副臥(そいぶし)として入内しました。

かつて東宮,皇子など位の高い男性が元服加冠の儀を終えた夜、女子を選んで添い寝をさせる風習がありました。
その相手に選ばれた女子のことを副臥といいました。
源氏物語の主人公・光源氏の副臥は葵上でしたね。

善峯寺 多宝塔 紅葉 
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中納言という低い身分の娘が皇太子に入内するというのはとても珍しいことでした。
なぜ茂子は皇太子に入内することができたのでしょうか。

尊仁親王と尊仁親王の母・禎子内親王(ていし ないしんのう)は関白・頼道と仲が悪かったので、尊仁親王に娘を入内させようという公卿はほかにいなかったのです。
親王といえど、関白ににらまれると悲惨だったんですね。

善峯寺 紅葉 
③中納言の娘・茂子、皇太后になる。

伝説にあるように、茂子は1053年に王子貞仁(白河天皇)を産みました。
その後1062年に茂子は薨去しました。
後三条天皇の異母兄・後冷泉天皇には皇子が生まれなかったので、1068年に後三条天皇が即位し、茂子が産んだ貞仁が皇太子となり、1073年、貞仁親王は即位して白河天皇となりました。
このとき白河天皇は生母・茂子に皇太后を追号しています。

善峯寺 阿弥陀堂 紅葉

④茂子のマタニティーブルーの原因


はい、茂子のマタニティーブルーの原因がわかりましたね。
茂子は身分の低さに悩んでいたのです。
中納言の娘として生まれた茂子が産んだ子が天皇になるなんてことは普通では考えられないことだったのです。

ところが、茂子が産んだ子は天皇になり、茂子はすでに亡くなっていたとはいえ、皇太后となったのです。
それはひとえに、善峯寺の千手観音のおかげ、というわけです。

善峯寺 釈迦堂 紅葉


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[2017/11/10 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)