都市右京区 車折神社
重陽祭・・・9月9日
9月9日は重陽の節句です。
①なぜ車折神社という神社名なの?
車折神社は清原頼業(きよはらのよりなり/1122~1189年/平安時代の貴族・儒学者)の廟があった場所とされます。
その後、清原頼業の法名にちなむ寺・宝寿院が建立されたそうです。
清原頼業の廟は桜の宮と呼ばれていました。
その後、後嵯峨天皇〈1220~1270)が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈ったということです。
轅とは牛車の前方に長く突き出ている2本の棒のことです。
またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられたとも伝わります。
車折って『八つ裂きの刑』という意味なんですけどね~。
参照/
車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり
重陽の節句は菊の節句とも呼ばれます。
②承久の変で流罪となった上皇たちと天皇
88代後嵯峨天皇は83代土御門天皇の皇子で、82代後鳥羽天皇の孫にあたる方です。
1221年、後鳥羽天皇(このとき土御門天皇に譲位していたので正しくは後鳥羽上皇)は兵を招集して鎌倉幕府の執権・北条義時を追討しようとしました。(承久の変)
しかし幕府軍に敗れて隠岐の島に流罪となってしまいました。
後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は変に関与したとして佐渡島に流罪。
83代土御門上皇は変に関与していませんでしたが、自ら望んで土佐国への流罪を受けられました。
当時の天皇は順徳天皇の皇子の85代仲恭天皇でしたが、廃されました。
そして後鳥羽天皇の同母兄・守貞親王(後高倉院)の皇子の後堀河天皇が86代天皇として即位し、守貞親王が院政を行うことになりました。
その後、後堀河天皇の皇子の四条天皇が即位しました。
文章だとややこしいですが、系図を見るとぱっと理解できると思います。
③後嵯峨天皇はなぜ即位することができたのか?繰り返しまーす。
後鳥羽上皇は承久の変で幕府軍に負けて流罪となり、後鳥羽上皇の皇子の土御門上皇・順徳上皇は流罪。
後鳥羽上皇の孫で順徳上皇の皇子の仲恭天皇は廃されました。
後鳥羽上皇の同母兄の後高倉院の皇子・後堀河天皇が即位し、続いて後高倉院の孫で後堀河天皇の皇子・四条天皇が即位。
そのまま後高倉院の子孫が皇位を継承すると思いきや、四条天皇の次にはなんと流罪となった土御門天皇の皇子の後嵯峨天皇が即位しています。
そう、後嵯峨天皇は車折神社の由緒に登場する方ですね。
なぜ後嵯峨天皇は即位することができたのでしょうか?
菊のしずくを飲んで700歳の長寿を得た菊滋童の説話から、不老長寿を祈ります。④平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下した在原業平薬子の変(嵯峨天皇vs平城上皇)のケースでは、敗れた平城上皇は出家、平城上皇の皇子の阿保親王は太宰府に流罪となりました。
阿保親王は許されて都に戻ったのち、子供の臣籍降下を申し出ています。
おそらく阿保親王は子供の臣籍降下を申し出ることで、朝廷に逆らう気持ちがないことを示そうとしたんでしょうね。
この阿保親王の子供が在原業平です。
つまり在原業平は本来であれば天皇になってもおかしくはない高貴な生まれであったのに、祖父・平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下したわけです。
後嵯峨天皇は在原業平と同様の境遇であったといえます。
祖父の後鳥羽上皇が変をおこし敗れて流罪、父・土御門天皇は流罪となったわけですから。
それなのに後嵯峨天皇は即位しています。
⑤四条天皇急死、後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶ土御門天皇が流罪となったのち、後嵯峨天皇は母方の大叔父・土御門定通に育てられました。
土御門家は没落し、貧しい生活を送ったようです。
1242年、四条天皇が12歳で崩御してしまいました。
もちろん四条天皇に子供はありませんでしたし、男兄弟もいませんでした。
四条天皇の父・後堀河天皇の兄弟は全員出家していました。
そこで後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶことにしたというのです。
九条道家らは順徳天皇の子の忠成王を天皇に押しました。
一方、北条氏は承久の変にかかわった順徳天皇の子を皇位につけるのはよくないといて、承久の変にかかわらなかった土御門天皇の皇子・後嵯峨天皇を推したのです。
うーん、でも後堀川天皇の出家した兄弟を還俗、即位させると言う方法もあったはずです。
桓武天皇の同母弟の早良親王は出家していましたが、還俗して桓武天皇の皇太子となっていますね。
早良親王は藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となったので、即位することはなかったんですが~。
実は北条氏は後嵯峨天皇と親戚でした。後嵯峨天皇の養父・土御門定通の側室が北条重時の同母妹だったのです。
それで北条氏は後嵯峨天皇を天皇につけたいと思っていたのではないでしょうか。
楽人たちも菊の簪をつけています。⑥後嵯峨天皇、四条天皇を呪う?車折神社にはふたつの伝説がありましたね。
a.後嵯峨天皇が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈った.
b.またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられた。
私はもともとの伝説はbだったのではないかと思います。
車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり ↑ こちらの記事に書いたように、車折神社は秦氏が祭祀する神社で、神社名は『八つ裂きの刑』からつけられたものであったのではないでしょうか。
御祭神は広隆寺の近くにある大酒神社と同じ秦酒公だったかも?
ちなみに大酒神社はもともとは大闢神社といいましたが、大闢とは極刑という意味です。
そしてその後、車折神社に清原頼業の廟がつくられたので、御祭神が清原頼業に変わってしまったとか?
北野天満宮なども、もとは別の神が祀られているところに祀られ、境内にはもともとの神を祀る地主神社があります。
で、北条氏か御嵯峨天皇がこの車折神社に祈願をしたのではないかと思うのです。
「四条天皇が崩御しますように!そうすれば御嵯峨天皇が次期天皇になれる!」と。
その呪いがかなえられて、四条天皇は崩御したと考えられたのではないでしょうか。
つまりb.の伝説の「ある人」とは四条天皇のことであり、「牛車の車が裂けた」とは「四条天皇が崩御し、後堀河天皇~四条天皇と続く血統が絶える」ことの比喩ではないかと思うのです。
菅原道真の死体を牛車に乗せて運んだところ、突然牛が動かなくなったので、その地に道真の遺体を葬ったという伝説もあります。
牛車をひく牛が動かなくなるというのは、死を暗示しているようにも思えます。
a.のほうの伝説は、本当は御嵯峨天皇は「四条天皇が乗っている牛車が裂けるように祈願していた」とするのが正しいのに、いつのまにか話がひっくり返り「後嵯峨天皇の乗っていた牛車の轅が折れた」と話がひっくり返ってしまったのではないでしょうか?
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[2017/09/11 19:59]
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