大阪市平野区 杭全神社
平野郷夏まつり だんぢり宮入り・・・7月13日
①日本で唯一連歌所が残る神社このあたりにはかつて上田村麻呂の孫・坂上当道の荘園があったそうです。
杭全神社はその坂上当道が862年に創建したと伝えられます。
日本で唯一連歌所が残る神社として有名です。
お祭りのため、境内にはたくさんの出店がでていて、連歌所の写真を撮るどころではありませんでした~。
今度参拝したときに連歌所の写真を撮ってきます。(すいません~。)
②連歌とは!
和歌は上の句(五七五)と下の句(七七)からなる日本の伝統的な詩歌のスタイルですね。
ここから、短連歌という形式が発生します。
短連歌とは、ある人が和歌の上の句を詠み、続く下の句を別の人が詠むというもので、院政期(1086年ー1185年ごろ)にはこうした短連歌の形式が確立していました。
その後、平安末期から鎌倉時代にかけて連歌という形式が発生し、流行しました。
複数の歌人たちが、五七五→七七→五七五→七七・・・と続けて歌を詠んでいくというもので
百句を一作品としたようです。
室町時代には千句や万句を一作品とするようなものもあったみたいです。
③百人一首とは!百人一首といえば藤原定家が撰んだ小倉百人一首を思い浮かべますが
正確には百人一首というのも、詩歌のスタイルのようですね。
一般には、優れた百人の歌人の歌を一首づつ集めたもの、と解釈され、小倉百人一首以外の作品もあるようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96#.E7.95.B0.E7.A8.AE.E7.99.BE.E4.BA.BA.E4.B8.80.E9.A6.96
④小倉百人一首はキーワードでつながる。しかし、織田正吉さんは、「小倉百人一首は単に優れた歌を百首集めたものではなく、キーワードでつながっている。」とおっしゃっています。
たしかに小倉百人一首は同様の語句が用いられた歌が多いです。
江戸時代になって小倉百人一首がかるたになったのも、同様の語句が多くてお手つきを誘いやすい点にゲーム性があるためであると。
子供のころ、我が家では正月に百人一首をやるのが恒例でした。
父は「わが衣手は露に濡れつつ~」と読み上げながら、「わがころもでにゆきはふりつつ」のカードをとる真似をします。
純情だった私は、父より先にそのカードを取って、はい、お手つきです。
⑤小倉百人一首は10次魔法陣だった。さらに織田正吉さんは「小倉百人一首はクロスワードパズルである」とされ、その後太田明さんが織田正吉さんの説をうけて小倉百人一首が10次魔法陣であることを解明されました。
10次魔法陣とは、縦10×横10の升目に1から100までの数字を入れ、縦横斜め、いずれの和も同じになるように配置したもののことを言います。
小倉百人一首の格歌には1~100までの数字がふられています。
同様の語句で繫がる歌を、縦10×横10の升目に配置していくと、なんとこの10次魔法陣になるのです~!
⑥魔法陣とドーマン
上は伊勢の海女が魔除けとして用いるセーマン・ドーマンです。図は友人に書いてもらいました。(ありがとう~)
このうち、ドーマンは碁盤の目のような形をしていて、魔法陣のマスのようにも見えますね。
魔法陣とはドーマンのような魔除けなのではないでしょうか?
とすれば、藤原定家は百人一首で10次魔法陣を作ることで、魔除けを行おうとしていたのではないでしょうか。
上賀茂神社 笠懸神事 『藤原家隆、後鳥羽院の笠懸を思い出して歌を詠む?』※追記あり 説明すると長くなるので、上の記事を読んでいただきたいのですが、藤原定家は承久の乱をおこして隠岐へ配流となった後鳥羽院の生霊を怖れていたように思えます。
百人一首には後鳥羽院の歌もとられていますし、後鳥羽院の流罪先である隠岐に通じる「おき」という言葉を用いた歌も4首あります。
定家は後鳥羽院の生霊から身を護るために百首の歌を10次魔法陣に並べたのではないでしょうか?
⑥連歌と百人一首連歌は100句で1作品とするものが多く、百人一首は百首で1作品とします。
連歌は直前に詠まれた句につなげて句を詠んでいき、百人一首は同様の語句で歌と歌がつながります。
連歌と百人一首は似ているように思えます。
すると百人一首が魔除けの意味を持っているように、連歌も魔除けを目的として行われたものなのかも?
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[2017/07/15 11:15]
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