大阪市天王寺区 四天王寺
2017年6月13日 撮影
①四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。
587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。(丁末の乱)
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。

四天王寺の境内には守屋祠があり、物部守屋が祀られています。
②聖徳太子が中に隠れた木はなぜ椋の木なの?聖徳太子は弓矢で射られそうになったとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。
大聖将軍寺 神妙椋樹上の写真は大聖将軍寺(大阪府八尾市)の神妙椋樹です。
聖徳太子が椋の樹の中に隠れたという伝説をあらわしたものですね。
昔の人は現代人とはくらべものにならないくらい鋭い自然観察眼を持っていたと思います。
現代人は例えば「ひまわり」だったら、夏休みをイメージしたり、その黄色い色から元気のよさをイメージしたりするぐらいが限界です。
でも昔の人は違います。
なぜ、聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説を作ったのか。
それは椋の木は樹洞ができやすいという性質があることを、知っていたからだと思います。
②守屋はなぜ樹洞に隠れることができなかったのか。一方、物部守屋は榎の木に登り指揮をしていたところを弓で射られて死亡したとされます。
http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-enoki.htm(榎の写真が掲載されています。)
聖徳太子が中に隠れたという椋は榎に似ているので、椋榎とも呼ばれます。
姿形は似ていても、榎は樹洞ができにくいのではないかと思います。
(ウィキペディアには「椋は樹洞ができやすい」と説明がありますが、榎についてはそのような説明はありませんので)
そういうわけで、同じように弓矢で射られても、聖徳太子は近くにあったのが椋の木だったため樹洞の中に隠れることができ、守屋は榎に上っていたので樹洞がなく、中に隠れることができず死んでしまったという話が作られたのではないでしょうか。
③迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したもの?榎の木の上にいる守屋を弓で射たのは迹見赤檮(とみのいちい)だとされます。
迹見赤檮は彦人皇子または聖徳太子の舎人とされます。
でも、この迹見赤檮(とみのいちい)という名前は偽名っぽいなあ、と思います。
イチイという樹がありますね。
イチイは学名をtaxus cuspidataといいますが、taxusはギリシャ語で「弓」、
cuspidataは「急に尖った」という意味だそうです。
ヨーロッパではロングボウという弓をイチイの木で作るそうです。
イチイの木を用いると、張力がある強力な弓が作れるそうです。
日本では竹と木を組み合わせた複合弓のほか、丸木弓も用いられていたようです。
もしかしたら、イチイを用いた弓が作られていたのかもしれません。
迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものなのかも?
④アイヌのイチイの弓アイヌではイチイを使って弓を作っていたようです。
アイヌとは北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島に住んでいた民族で、蝦夷(かつて関東・東北・北海道に住んでいた大和朝廷に従わない民)と関係があるのではないかとする説もあります。
また、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていたナガスネヒコ(別名トミヒコ)は、日向からやってきた神武に敗れ、
トミヒコの兄のアビヒコが東北に逃れたのが、蝦夷の安倍氏だともいわれます。
アイヌとは蝦夷であり、また神武や蘇我氏に敗れた物部氏だと考えるのは、あまりにトンデモかなあ?
迹見赤檮(とみのいちい)の迹見(とみ)とはナガスネヒコの別名・トミヒコからくるもので
アイヌであり、蝦夷であり、物部氏であるトミヒコの弓矢で、物部守屋は射られたということだったりして?
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