京都市東山区 戒光寺
2017年6月7日 撮影
①爪が長いのは夜叉や天狗の特徴即成院 戒光寺 雲龍院 (泉涌寺塔頭)皐月 『爪の長いみほとけ』 ↑ こちらの記事で、戒光寺の爪の長い丈六の釈迦如来についてお話ししました。
「平安時代の貴族は爪を長く伸ばしており、それを反映して爪の長いみほとけが作られた」という説があります。
しかし、私は次のように考えました。
平安時代の貴族は爪を伸ばしていなかったのではないか?
爪が長いのは夜叉や天狗の特徴であり、戒光寺の釈迦如来は夜叉や天狗の特徴を備えたみほとけではないか?
そう考えたのは、崇徳上皇に次のような話があるためです。
保元の乱〈1156年)で後白河天皇に敗れた崇徳上皇は讃岐へ流罪となり、反省の意味をこめて五部大乗経の写本を作り、それを朝廷に送りました。
ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃない?こんなの受け取れっかよーー。」と写本を送り返してきました。
崇徳上皇は舌を噛みきり、その血で写本に次のように書いたと言われます。
「日本国の大魔禄となって、皇を取って民とし民を皇にしてやる!」「この経を魔道に回向してやる!」
そして髪や爪を伸ばし続けて夜叉のような姿となり、生きながら天狗になったといわれます。

『美勇水滸傳』木曽駒若丸義仲に鼻を摑まれた天狗(一魁斎芳年筆)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:YoshitoshiGrabTenguNose.jpg?uselang=ja よりお借りしました。
上の絵は明治時代の画家・一魁斎芳年が描いたものですが、天狗の爪が長いように見えます。
②爪の長いみほとけは後堀河天皇が畏れていた人物をイメージしている?だとすると、なぜ夜叉や天狗のように爪の長いみほとけが作られたのでしょうか?
戒光寺は1228年、浄業(曇照律師)が猪熊八条の地に開山したお寺で、後堀河天皇の勅願所とされました。
猪熊八条とは南北に伸びる猪熊通が、東西に延びる八条通と交差するあたり(東寺の東北付近)のことでしょうか。
後堀河天皇の勅願所だということは、後堀河天皇が畏れ敬っている人物をイメージしたみほとけなのかもしれませんね。
③魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を倒すべく挙兵しますが、敗れました。(承久の乱)
鎌倉幕府は後鳥羽上皇を隠岐島へ、土御門上皇(後鳥羽上皇の子)を土佐、順徳上皇(後鳥羽上皇の子)を佐渡へ配流としました。
また仲恭天皇(後鳥羽上皇の孫、淳徳天皇の子。当時4歳)は退位させられました。
そして後鳥羽上皇の兄・守貞親王の三男・茂仁王を即位させました。
これが後堀河天皇です。
1237年、後鳥羽上皇は次のような文章を書いています。
「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。
もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」
後鳥羽上皇は相当後堀河天皇を恨んでいたはずで、後堀河天皇は後鳥羽上皇の恨みを怖れていたと思います。
③死後怨霊となった後鳥羽上皇後鳥羽上皇は1239年3月28日に隠岐島で崩御されますが、
平常高の日記『平戸記』には「三浦義村(1239年12月31日死亡)や北条時房〈1240年2月18日死亡)の死は後鳥羽上皇の怨霊のしわざである」と書いてあります。
後鳥羽上皇は死後、怨霊になったと考えられたようです。
④藤原家隆は後鳥羽上皇の生霊を怖れていた?上賀茂神社 笠懸神事 『藤原家隆、後鳥羽院の笠懸を思い出して歌を詠む?』※追記あり 説明すると長くなるので、上の記事を読んでいただきたいのですが、藤原定家や藤原家隆は後鳥羽上皇の生霊を怖れていたように思えます。
生霊というより、後鳥羽上皇が後堀河天皇に対して行っている呪詛を怖れたといったほうがいいかもしれませんが。
それで後鳥羽上皇をイメージした御仏を作って戒光寺の御本尊とし、勅願所としたのかも?
後鳥羽上皇は生霊なので、みほとけの爪を長くしたのかもしれないですね。

戒光寺と同じく泉涌寺塔頭の雲龍院 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2017/06/09 10:13]
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