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三大神社 藤 『中臣鎌足は本当に藤原姓を賜ったのか?』 

滋賀県草津市 三大神社
2017年5月5日 撮影

三大神社 藤3

①老藤由来記


境内には『老藤由来記』を記した説明版がありました。
文語体かな? 現代では口語体で文章を書くので、少しわかりにくいですね。
私なりに口語体に直してみました。(間違っていたら指摘をお願いします~。)

三大神社 藤6

老藤由来記

古老ノ伝説ニ曰ク、
(古老の伝説では次のように伝える。)

聖徳太子十七条憲法ヲ 御創立シ給ヘリ、
(聖徳太子が十七条憲法を作られた。)

是ヨリ後中大兄皇子(天智 天皇)ト和州中臣鎌足等ト蘇我入鹿ヲ誅スル 事ヲ謀リ給ヒ、
(この十七条憲法を受けてのちに中大兄皇子(天智天皇)と倭国の中臣鎌足らが蘇我入鹿を征伐することを計画された。)

蘇我氏滅亡セル後内大臣藤原 鎌足公薨去セラレ飛鳥ニ葬リタリシカ其長子 定恵墓トシテ大和ノ談峯ニ改メ葬リタリ、
(蘇我氏が滅亡した後、内大臣・藤原鎌足公は薨去され、飛鳥に葬られたが、鎌足公の長子・定恵が鎌足公の墓として大和の談峯に改めて葬った。)

然 シテ後天武天皇ノ勅ヲ拝シテ談峯ノ藤花ニ因 ミ藤原ノ隆盛ヲ祈念トシテ彼ノ倉橋山ノ藤ノ 苗ヲ移植セルカ
(そして後に天武天皇の勅により談峯の藤花にちなみ藤原氏の隆盛を祈念して、かの倉橋山の藤の苗を移植したが)

年ヲ追テ成木シ巨大ノ藤樹ト ナリシヲ織田信長ノ兵火ニ罹リ巨藤亦焼失。
(年を経て成木して巨大な藤樹となったが、織田信長の兵火によって巨大な藤の木は焼失した。)

後株元カラ芽生エ次第ニ繁茂セリ今ノ藤樹ハ 即チ是ナリ
(その後、株本から芽が出て繁殖した。これが三大神社の藤である。)

三大神社 藤4

談峯とは、談山神社のある奈良県桜井市の多武峰のことだと思います。
(談山神社には談峯如意輪観音がありますし、談山神社の由来を記した書物は『談峯記』というようですので。)

談峯の藤花に因み とは、「中大兄皇子と中臣鎌足が倉橋山の藤の花の下で蘇我入鹿誅殺計画について話し合ったという伝説に因む」ということでしょう。

藤原 中臣鎌足は死の直前、天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜りました。

倉橋山 「中大兄皇子と中臣鎌足は都の東にある倉橋山の藤の花の下で蘇我入鹿誅殺計画について話しあったため、その峯のことを談山(かたらいのやま)という。」との旨が『和漢三才図会』に記されています。
つまり倉橋山とは談山(かたらいのやま)のことだと考えられます。
倉橋山=談山は談山神社のある多武峰のことではないでしょうか。

三大神社 藤2

②八色の姓・52氏の中に藤原姓がない

三大神社は天智天皇4年〈665年)、天智天皇の勅を受けて大中臣金連が風神を祀ったのが起源とされます。

中臣金(?ー672年)は中臣鎌足〈614年-669年)の従兄弟にあたる人物です。

中臣鎌足が天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったのは死の間際の669年です。
こうして中臣鎌足(藤原鎌足)は藤原氏の始祖となったわけです。
三大神社が創建されたとき、まだ中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っていません。

そして鎌足の死後、鎌足の次男の不比等(659年―720年)が藤原姓を引き継いだとされます。

でも、おかしいんですよね。
天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められ、52氏が朝臣を与えられたんですが、この中に藤原姓がない!

三大神社 藤

③藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜った?


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14151135009

↑ 上記知恵袋のbanquo0421さんの回答が興味深いです。

要約すると次のような内容が記されています。

⑴臣下の姓と同じ名前が、新しい宮につけられる、というようなことはない。
臣下のほうが遠慮して改姓するはずである。(823年、大伴氏は大伴親王(淳和天皇)が即位した際)した際、天皇の諱と同じ姓であるのを憚って伴氏に改姓している。)

⑵天智天皇の子孫は近江京にちなんで淡海氏という姓を賜った。
天武天皇の子孫は飛鳥浄御原宮にちなんで清原氏という姓を賜った。
桓武天皇の子孫は平安京にちなんで平氏という姓を賜った。

⑶⑵の例からわかるように「都の名前が姓になる」ことは普通にあった。

⑷中臣鎌足が藤原姓を賜ったのではなく、藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜ったのではないか。

⑸実質上、日本書紀を編纂したのは藤原不比等である。不比等が「鎌足が天智天皇より藤原姓を賜った」と偽ったのではないか。

⑹不比等は手柄を誇らない性質で、生涯右大臣にとどまっていた。(政界のトップは左大臣)
また、律令・日本書紀の編纂を主導したが、自分の名前が表に出ないようにしている。
不比等は自分が「天皇から姓を給わるような大物である」ことを誇りたくなかったのではないか。

⑺自分一代でのしあがった成り上がり者だと思われたくなかったのではないか。

三大神社 藤5

おお~、すばらしい回答ですね!
座布団2枚!!

いままで藤原という臣下がいるのになんで新しい都を藤原京という名前にしたのかととても不思議に思っていましたが
banquo0421さんの回答でスッキリです!

不比等は自分の父・鎌足が中大兄皇子(天智天皇)をサポートして蘇我政権を倒したことを誇りに思っていたため
自分ではなく、父の鎌足が藤原姓を賜ったということにしたかったのかもしれませんね。

三大神社


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[2017/05/07 11:27] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)