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髄心院 桜 『わが御代に降るながめせしまに』 

京都府京都市山科区 髄心院
2017年4月初旬 撮影

髄心院 総門 桜

①花のいろは移りにけりないたづらに

数日前から続く雨が降りやまず、随心院の桜はしっとりと雨に濡れていました。
ここ随心院は小野小町邸宅跡と伝わり、随心院の桜を見ていると小野小町の有名な歌を思い出します。

花の色は 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
(花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
私の容色も花の色と同じで、恋の物思いにふけっている間にすっかり衰えてしまいました。)


髄心院 歌碑 八重桜 
 

②小野小町は男だった?

古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が数多くあります。
古今和歌集仮名序を書いた紀貫之は『土佐日記』で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と女と偽って文章を書いています。

古今和歌集仮名序は小野小町について次のように記しています。
「小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり
強からぬは 女の歌なればなるべし」
やけに小町が女であることを強調しすぎてはいるように思えるんですよね~。

また小野小町は性的に不能で、穴がない体だったという伝説があります。
穴のない待ち針は小町針がなまったものであるというのです。
穴がない体とは男であるということなのでは?

小野小町は男なのではないでしょうか?
惟喬親王は小野宮という広大な邸宅に住み、自身も小野宮と呼ばれていました。
小野小町とは小野宮=惟喬親王のことではないでしょうか?

  髄心院 薬医門 桜

③3つの意味を持つ歌

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

『花』は古今集の排列からみて、桜だとされています。
そして『色』には『カラー』と『容色』のふたつの意味がかかります。
『世にふる』は『世にあって時を経る』という意味ですが、『世』には男女関係という意味もあります。
『ふる』は『降る』の掛詞、『ながめ』は『物思いにふける』という意味で、『長雨』と掛詞になっています。

このような技法を駆使しているため、この歌には二重の意味があるとされます。

①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。

でも私はこの歌にはもうひとつの意味が隠されており、3つの意味を持っているのではないかと考えています。

髄心院 薬医門 桜2

④色褪せたはねずの梅

小町の邸宅跡と伝わる,京都・,随心院の梅園にはたくさんの「はねずの梅」が植えられています。
遅咲きの梅で、桜と同時に満開になることもあるようです。
残念ながら今年は桜が咲くのが遅かったので、梅園の梅はほとんど散ってしまっていましたが。

下の写真は以前に撮影した随心院のはねずの梅です。

髄心院 梅

また鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のこともはねずといい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞になっています。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌に詠まれた花とははねずの梅のことだと考えたほうがぴったりきますね。

そうであるのに、なぜこの歌は桜の歌として古今集に取り入れられているのでしょうか。

惟喬親王との世継ぎ争いに勝利して即位した惟仁親王(清和天皇)の母親は藤原明子ですが、明子の父・藤原良房が次のような歌を詠んでいます。

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
(染殿の后の前の花瓶に桜の花をいけてあるのを見て詠んだ。)

年ふれば 齢(よはひ)は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年を重ねたので齢は老いたが、美しい桜の花を見れば、悩みなどありはしない。)


染殿の后とは良房の娘の明子のことです。
桜の花のように美しい娘の明子は文徳天皇の后となって惟仁親王を産み、その惟仁親王は皇太子となりました。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、良房は清和天皇の摂政となって政治の実権を握りました。
娘の明子が清和天皇を産んだので良房には悩みなどなかったのです。

この歌から当時桜は栄華の象徴だと考えられていたということがわかります。

はねずの梅は鮮やかなピンク色です。
その鮮やかなピンク色のはねずの梅の花の色が長雨のために色が落ち、淡いピンク色の桜になったということで桜の歌として取り上げられたのではないかと私は考えています。

髄心院 桜 

⑤ぎなた読み

『弁慶が なぎなたを もって』と読むべきところを『弁慶がな、ぎなたを持って』などのように、区切りを誤って読むことを『ぎなた読み』といいます。

『ぎなた』という言葉はありませんないが、小野小町はぎなた読みをしても意味が通じるように歌を詠んでいるのがスゴイ!

花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
『わがみよにふる』は『我が身 世に ふる』と読みますが、ぎなた読みで『わが みよに ふる(我が御代にふる)』と読めるではありませんか~。

⑥わが御代にふるながめせしまに


『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味です。

惟喬親王は文徳天皇の長子でしたが、異母弟・惟仁親王(後の清和天皇)との世継ぎ争いに敗れて小野の里に隠棲し、頻繁に歌会を開きました。
その歌会のメンバーの中に六歌仙の遍照、在原業平、紀有常(喜撰法師)らの名前があります。
彼らは歌会と称して惟喬親王をまつりあげてのクーデターを計画していたとする説があります。

クーデターに成功した暁には惟喬親王は即位して天皇になるつもりだったと考えれば、彼が『わが御代に』と歌を詠んだ意味が理解できます。
実際には彼らのクーデターは未遂に終わったようですが。

高田祟史さんが和歌とは呪術であるというような意味のことをおっしゃっていました。
惟喬親王の歌会とは清和天皇のバックで政権を牛耳る藤原良房や藤原基経らを呪う目的で行われていたのかもしれません。

●小野小町の歌に隠されていた男らしい歌

全文を現代語訳すると、次のような意味になるのではないかと思います。

はねずの梅は長雨が降って色が褪せ、栄華の象徴である桜となった。
私が天皇となって治世をおさめるときがきた。
そんな眺めを私は見るのである。

この一見女らしい小野小町の歌にはその裏に、大変男らしい堂々とした 意味が隠されていたのです。
そして、「我が御世」と堂々と歌い上げることができるのは、小野宮=惟喬親王しかいない!
そう私は思うのです。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)


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[2017/04/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)