帯解寺 桜 『惟喬親王の怨霊封じ込めの地蔵と小町之宮』 

 
奈良市今市町 帯解寺
2017年4月9日 撮影


帯解寺 本堂 桜

①腹帯地蔵

帯解寺の堂内に入ると安産祈願の祈祷が行われている最中で、複数のカップルが地蔵菩薩に手を合わせていました。
ここ帯解寺は安産祈願のお寺として有名なのです。

やがて祈祷が終わると、カップルたちは地蔵菩薩が安置された内陣へと入っていきました。
私と友人も僧侶の方に手招きされて内陣に入りました。
他の参拝者の方々に「随分高齢の妊婦さんだな」と思われたかも?
いや・・・お腹が出てるのは中年太りだからで、安産祈願ではなく単なる参拝でやってきたんですが~(汗)。

帯解寺 桜


帯解寺には次のような伝説がつたえられています。

文徳天皇の御妃・染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様にめぐまれず、大変悩んでおられました。
あるとき、春日明神のお告げがあり、勅使をたてて帯解子安地蔵菩薩にお祈りなさいましたところ、まもなく御懐妊なされました。
こうしてお生まれになったのが惟仁(これひと)親王(清和天皇)でした。
文徳天皇はたいへん、お喜びになって858年春、更に伽藍を建立になりました。

帯解地蔵の像高は182.6cm。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しておられました。
腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから『腹帯地蔵』と呼ばれています。

②同様の伝説が十臨寺・清和院・染殿院にも。

これと同様の話は京都の十輪寺・清和院・染殿院にも伝えられています。
いずれも染殿皇后に安産をもたらしたとされる地蔵菩薩をお祀りしています。

十輪寺 しだれ桜

十輪寺

清和院 

清和院

染殿院  

染殿院

③文徳天皇は惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしたくなかった。

藤原明子が惟仁親王(清和天皇)を産んだことを、文徳天皇が喜んだかどうかは微妙です。
というのは、文徳天皇は惟仁親王ではなく、紀静子が産んだ長子の惟喬(これたか)親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談しているのです。
源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って「それはやめたほうがいい」と諌めたそうです。

平家物語には紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)が、どちらの孫を立太子させるかでバトルを繰り広げたようすが記されています。
高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとあります。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述は事実ではありません。
でも紀氏と藤原氏が権力争いをしていたことは事実だと思います。

帯解寺 門 桜


④惟喬親王は怨霊だった。

政治的に不幸だった惟喬親王は惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社などに御霊として祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
つまり惟喬親王は怨霊だったということですね。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災などは怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。

玄武神社 やすらい祭2

玄武神社


十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であり、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」とおっしゃっています。
聖徳太子が怨霊になったのは、彼の子孫は全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したためであると、梅原さんは説明されてされています。

これと同様、十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないでしょうか?

⑥怨霊は祀り上げれば和魂に転じる

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えるそうです。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩ではないかと思うのです。

帯解寺 門 桜 
⑦喜撰法師は紀名虎または紀有常。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一人の喜撰法師は紀名虎または紀有常のことだとわれています。

紀名虎は惟喬親王の外祖父でしたね。
紀有常は紀名虎の息子で惟喬親王の母・紀静子の兄、つまり惟喬親王の叔父にあたる人です。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、その中に遍照在原業平紀有常らの名前があります。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もあります。

⑧六歌仙は怨霊だった。

六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前があげられた6人の歌人のことをいい、一般的には歌のうまい6人の歌人のことだと考えられています。

しかし高田祟史さんは「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっています。
かつて神と怨霊は同義語だったといわれますが、これと同様、歌仙も怨霊と同義語だったのではないかというのです。

六歌仙のうち遍照・在原業平・紀有常(喜撰法師)らが惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのであれば、それは失敗したと考えられるので(惟喬親王は皇位につくことができず、遍照・在原業平・紀有常らが政権を掌握することもできていないので)、確かに彼らは怨霊だといえるでしょう。

六歌仙の文屋康秀についてですが、文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われます。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となりましたが、死後冤罪であったことがわかりました。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されています。
大友黒主とは大伴家持のことだと思います。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡していたのですが、死体が掘り起こされて流罪とされました。

参照/ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

帯解寺 雪柳


⑨小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?

残る.小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれました。
しかし私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと考えています。

古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんあります。
また、古今和歌集仮名序を書いたとされる紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いています。

『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいます。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣=紀静子としています。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことです。

「町」とは紀氏の女性をさしているように思えます。

⑩小町宮

帯解寺には小町宮があります。

日本では神仏は習合して信仰されていました。
帯解寺の腹帯地蔵と小野小町は同体であるので、ここに小町宮が祀られているのではないでしょうか。

帯解寺 小町之宮



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[2017/04/15 00:36] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)