京都市山科区 大石神社
2017年4月5日 撮影
①討ち入り
大石神社は忠臣蔵で有名な大石内蔵助を祀る神社です。
1701年、刃傷(刀で人を傷つけること)が禁止されていた江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が突然、吉良上野介に斬りかかるという事件がおきました。
浅野内匠頭はすぐに取り押さえられて吉良上野介は傷は負ったものの命に別状はなし。
しかし、この日は『勅答の儀(朝廷が派遣してきた勅使が将軍に勅旨を渡し、それに対して将軍が奉答する儀)』が行われる予定で、儀式が台無しにされたことに5代将軍・徳川綱は激怒!
浅野内匠頭は切腹を命じられ、赤穂浅野家五万石は取り潰されてしまいました。
1703年、大石内蔵助ら47人の浪士は朝野内匠頭の仇を討つため、吉良上野介邸に討ち入りました。
そして吉良上野介ほか14名を殺害したのです。
赤穂浪士側の死者はありませんでした。
赤穂浪士たちは泉岳寺の浅野内匠頭の墓へ赴き、吉良の首を供えてお焼香をしました。
その後、赤穂浪士達は切腹処分となり泉岳寺に葬られました。
②大石神社(兵庫県赤穂市)赤穂城内の大石邸では小さな祠が作られ、赤穂浪士はひっそりと祀られていました。
どうやら江戸幕府を憚っておおっぴらに祀ることを避けていたようですね。
ところが1867年大政奉還が行われ、江戸幕府が消滅。
翌1868年、明治天皇は赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を送り、赤穂浪士の霊を弔ったのです。
1900年、政府は大石神社の創建を許可し、赤穂浪士の霊は公に祀ることができるようになりました。
これが兵庫県赤穂市の大石神社です。
③大石神社(京都市山科区)私が今回参拝したのは京都市山科区にある大石神社です。
山科の地は大石内蔵助が隠居生活を送り、ひそかに討ち入りを計画していた場所です。
1935年、浪曲師の吉田大和之丞が中心となって募金活動などを行い創建された神社です。
④明治天皇の怨霊信仰こうして見てみると、大石神社の創建は明治天皇が赤穂浪士の霊を弔ったことが契機となっているように思えます。
なぜ明治天皇は赤穂浪士の霊を弔ったのでしょうか。
赤穂浪士たちの藩主を敬う心が評価されたということがあると思いますが、ほかにも理由がありそうです。
明治天皇という人は強い怨霊信仰を持った人であったと私は思います。
というのは、京都に白峯神宮を創建して崇徳天皇(上皇)と淳仁天皇を祀ったりしているからです。
白峯神宮崇徳上皇は保元の乱をおこして後白河天皇と争い、敗れて讃岐に流罪となった方です。
崇徳天皇の死後、延暦寺の強訴・安元の大火・鹿ヶ谷の陰謀などが起り、後白河天皇と関係の深い人物が次々に亡くなるなどし、これらは崇徳天皇の怨霊の仕業であると考えられました。
淳仁天皇は奈良時代に藤原仲麻呂の後押しを受けて即位した人です。
しかし藤原仲麻呂が乱をおこし、孝謙上皇側が勝利すると皇位をはく奪され、廃帝と呼ばれていました。
淳仁という諡号も明治になってからつけられたものです。
政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことを怨霊といい、疫病の流行や天変地異などは怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。
崇徳だけでなく淳仁も怨霊であると考えられていたことでしょう。
赤穂浪士たちも怨霊といっていいと思います。
そして、怨霊は祀り上げることで守護神に転じるという考え方がありました。
明治天皇は崇徳・淳仁・赤穂浪士たち怨霊を祀り上げることで、自らの守護神にしようと考えたのではないでしょうか。
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[2017/04/09 00:38]
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