Author:佳音
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富山市丸の内 富山城富山市総曲輪 本願寺富山別院2017年2月下旬撮影 ①富山の薬売りの思い出子供のころ、富山の薬売りのおじさんがよく家に来たものです。しゅっとしたイケメンのおじさんでしたね。家にはおじさんが置いていった薬箱があり、中にはいろんな薬が入っていました。http://nomurayaku.sakura.ne.jp/toyama.htm上記リンク先に富山の薬のパッケージの写真が掲載されています。どれもレトロなデザインがすてき~。獅子頭をデザインしたかぜビラα、達磨のかぜ一快など見覚えがあります。パッケージ捨てずに置いとけばよかった~。で、いつも帰り際におじさんがおみやげをくれるんですね。風船とか紙風船が多かったかな。http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_35.htmlこちらもすてき~。置いとけばよかった~。 ②富山の薬売りのルーツは江戸城腹痛事件1639年、加賀藩第3代藩主・前田利常は引退し、前田利常の長男・前田光高が加賀藩第四代藩主となりました。この際、前田利常は次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を願い出て許されています。「次男の利次、三男の利治にも何か分け与えてやりたい!」前田利常はそう考えたのでしょうネ。こうして同年、富山藩が成立しました。ところがこの富山藩、際立った産業がない貧乏な土地でして、財政難に~。「兄の利常は100万石なのに、弟のオレは10万石~。弟って損だよ~」と利次が言ったかどうかはわからないですが。 金沢 長町武家屋敷「泣き言を言っても仕方ないじゃん!自分の藩は自分で努力して切り開かなくちゃ!」利次の次男で富山藩2代藩主となった前田正甫(まえだ まさとし)がこう言ったかどうかもわからないですが彼は有能な人材をばんばん採用。新田開発・製鉄業ほか、様々な産業を奨励するなどして、財政難を克服すべく精力的に活動しました。こう書くと前田正甫って溌剌とした人物のようにも思えますが、実は病弱な人だったと言われます。 江戸城(現在は皇居)1690年、正甫は江戸城でひどい腹痛に襲われました。(江戸城腹痛事件)三春藩主・秋田輝季「前田殿、どうなされた?」正甫「うう~、おなか痛い~、もうだめ~、死ぬ~。」秋田輝季「それは大変。そうじゃ、これをお飲みなされ。腹痛によく効きく薬でござる。」正甫「腹痛によく効く薬?」秋田輝季「さよう、反魂丹でござる。」 堺鉄砲鍛冶屋敷反魂丹は室町時代に堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、代々万代家が伝えてきたといわれる薬です。反魂丹を飲むと正甫の腹痛はけろりと治ってしまいました。(ただし、これを裏付ける史料はないそうで、作り話かもしれません。)「反魂丹ってすげー!」驚嘆した正甫は万代家11代目・万代常閑(まんだいじょうかん/読み方を「もず」から「まんだい」に改めていた)を富山に呼び寄せ、その製法を教わりました。そして独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて持ち歩いていたと言われます。また、松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を発布しました。さらに富山城下の製薬店・薬種業者を保護するなどし、18世紀には富山藩の一大事業となりました。富山の薬売りは、財政難に悩む病弱藩主・正甫が生み出したといえるかもしれません。 ③上杉謙信、富山の薬売りをスパイとしていた?この時代、一般の人が旅をするには許可が必要だったんですね。ところが富山の薬売りのような行商人は比較的自由な移動が認められていました。富山の薬売りは領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を持っていました。これに上杉謙信が目をつけた! とも言われています。上杉謙信は武田信玄が忍者を使っているのに対抗して、富山の薬売りをスパイに用いていたというのです。もちろんこういうことは史料などには残っていませんが~。⑥富山の薬売りと浄土真宗富山城の近くに本願寺富山別院がありました。浄土真宗のお寺です。北陸地方では浄土真宗の信者が多いのです。戦国時代、本願寺は北陸地方に勢力を伸ばしました。それが現在まで続いているのですね。富山の薬売りもほとんどが浄土真宗の信者で、懐に小さな仏像を持って全国を行商したといわれます。かつて仏教と医学は密接な関係があったと思います。大阪の四天王寺などでは施薬院(薬局)・療病院(病院)・悲田院(入院病棟)が設けられていましたし。本願寺 富山別院⑦富山の薬売りと少名彦名神さらに日本では古くより神仏は習合して信仰されていました。今回の旅では訪問しなかったのですが富山市鹿島町の鹿嶋神社では前田正甫を富山の薬売りの祖神として祭っているそうです。鹿嶋神社では前田正甫のほか、大己貴命と少彦名命も祭っています。少彦名命は薬の神として信仰されており、薬問屋が多い大阪の道修町には少彦名神社がありますね。また、和歌山県加太の淡嶋大社でも神功皇后のほか、大己貴命と少彦名命を祀っています。女性の下の病にご利益があると信仰されていますよ。で、江戸時代には淡島願人といって淡島神を祀る小さな社を背負った乞食が全国をまわり、淡島さんの徳を説いてまわっていたようです。http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/hina-okuri2.html上記リンク先に淡島願人の絵があります。下のほうに、社を背負った淡島願人の絵が掲載されています。荷物を背負う姿が、なんとなく富山の薬売りに似ているような気がします。富山の薬売りたちが懐に小さな仏像を持っていたのは、阿弥陀仏の徳と薬の効能を結び付けるためだったのではないか。富山の薬売りたちは薬の行商をしつつ、浄土真宗を全国に広めようとしていたのではないか、と思ったりします。裏付けはとれてませんが~。(なんじゃ、それ~) ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村にほんブログ村
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