岐阜県下呂市 下呂温泉
2017年2月下旬 撮影
①下呂温泉の白鷺伝説
下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。
翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。
②源義平の狒々退治伝説
下呂温泉近くの金山町祖師野には源義平の伝説も残されています。
昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べてしまっていました。
1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治しました。
村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していました。
200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまりました。
③岩見重太郎の狒々退治伝説どこかで聞いた話だなあ?
そうそう、大阪の野里住吉神社では岩見重太郎(薄田兼相)が狒々退治をしたという伝説があるんでしたね!
参照/
野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』
野里住吉神社 一夜官女祭 (少女たちは狒々にささげられる人身御供です。)
④日本の伝説には似たような話が多い日本の伝説・民話には似たような話で、登場人物が入れ替わっているケースがよくあります。
たとえば琵琶湖の瀬田の唐橋で藤原秀郷が大百足を退治したという話がありますが
男体山には猿丸が大百足を退治したという話があります。
源義平の生没年は1141年~1160年、岩見重太郎の生没年は?年~1615年です。
しかし言うまでもないことですが、どちらの伝説が先にできたのかはわかりません。
岩見重太郎の伝説ができたのちに、この伝説をベースにして源義平の伝説が作られた可能性もあります。
この河川敷に噴泉池(露天風呂)がありました。
オールヌードで入浴されている方がたくさんおられたので写真は撮らなかったんですが(笑)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gero_Spa_Kawararoten.JPG
↑ こちらに写真がありました。
⑤親の仇討ちと狒々
岩見重太郎と源義平には共通点があります。
【岩見重太郎】
岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅しました。
旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討ちました。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子になりました。
【源義平】
源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺されています。
このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去ってしまいました。
源義平は自害しようと考えましたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かいました。
石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けます。
源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言いました。
難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といいました。
こうして義平は20歳で斬首されました。
8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死にました。岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしていますね。
岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいますが。
どうやら、親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけなかったようですね。
⑥岩見重太郎は陽、源義平は陰また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もありそうに思えます。
岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っています。
そして①の伝説では、源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとありますね。
④の
【源義平】では義平は飛騨で兵を集めていたと書きましたが、飛騨とは現在の岐阜県あたりで、下呂市も飛騨に含まれます。
つまり、源義平は祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)で狒々退治をしたあと、仇討ちをするため京に向かったと思われますので、太刀をもたずに京へ向かったということだと思います。
実際には刀は持っていったでしょう。
あくまで伝説に基づいて考えるとそうなる、ということです。
岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽)
一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰)
ということなんじゃないかと思います。
⑦源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられた?私は源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられていると思います。
ヤマトタケルは草薙の剣を持たずに伊吹山に行き、素手で白い大猪と闘ったと記紀には記されています。
白い大猪は伊吹山の神で、大氷雨を降らせました。
そのためヤマトタケルは病を患って伊吹山を降り、大和に戻ろうとしましたが力尽き、能煩野(三重県亀山市)で亡くなってしまいました。
その地にヤマトタケルのための陵が作られましたが、ヤマトタケルは白鳥となり大和をめざして飛び去りました。
白鳥とはスワンのことではなく、白い鳥の意味だと言われます。
白鷺も白鳥だということになります。
あれ?
①下呂温泉の白鷺伝説をもう一度読んでみてください。
この伝説に登場する白鷺って、ヤマトタケルとイメージが重ねられた源義平のことでは?
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ありがとうございました!
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[2017/03/16 00:00]
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