岐阜県 白川郷
2017年2月下旬 撮影
①陸の孤島トンネルを抜けると白川郷でした~。
シャトルバスで萩町城跡展望台へ向かい、見下ろすと合掌造の集落が見えます。
写真を見ていただくとおわかりのように、白川郷は山に囲まれています。
車で抜けてきたトンネルも昔はなかっただろうし、冬はどかっと雪が降るし、陸の孤島といった状態だったのではないかと想像します。
木曾義仲と闘って敗れた平家の落人が住み着いたという伝説があり、またかつて流刑地だったともいわれますが
それはこうした地形や気候によるところが大きいと思います。
以前の記事で、五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていたと書きましたが
参照/
白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 かつて白川郷でも煙硝が生産されており、「加賀藩の火薬庫」と呼ばれていました。
白川郷では合掌造の屋根裏で養蚕を行っており、その蚕のフンが煙硝の原料になったのです。
白川郷の人々は蚕のフンという産廃をうまく利用して、煙硝の生産を行っていたわけです。
また陸の孤島ともいうべき地形が軍事機密を保つのにちょうどよかったとも言われています。
②白川郷の煙硝生産はなぜ始まったの?白川郷から近い五箇山上梨の村上家住宅には煙硝厩(えんしょうまや)がありました。
参照/
白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 白川郷にも見学することのできる民家はあるのですが、時間の関係で見学することができませんでした。
なので村上家住宅にあるような煙硝厩があるのかどうかわかりません。
http://eikojuku.seesaa.net/article/252136295.html上のサイトでは囲炉裏の両脇に穴を掘り、ヒエ殻、蚕のフンを入れ、ヨモギや麻土で埋め戻し、5~6年放置して発酵させたと記してあります。
また、織田信長と抗争を続けていた石山本願寺(浄土真宗)が、白川郷で密かに火薬を作らせていた、とも書いてあります。
明善寺 白川郷ではお寺も茅葺でした。
③内ヶ島氏の支配室町時代、白川郷は内ヶ島氏が支配していました。
内ヶ島氏は鉱山開発技術に長けており、それで足利義満に白川郷にいくよう命じられたようです。
白川郷付近に鉱山があったということでしょうね。
ぐぐってみても、内ヶ島氏が開発を行った鉱山がどこにあったのかわからなかったんですが~。
戦国時代には内ヶ島氏は鉱山経営を行って莫大な富をたくわえ、帰雲城(推定地は白川村保木脇)を居城としていました。
※地図をクリックすると左上の枠が消え、白川村の文字があります。
そのあたりが白川郷萩町地区(写真は萩町地区)です。また向牧戸城・萩町城・新淵城など多くの支城を築いています。
1枚目の写真は萩町城跡展望台から撮影したもので、かつてこのあたりに萩町城があったとされます。
小牧・長久手の戦いでは、内ヶ島氏理が佐々成政に属して越中に出陣しました。
しかし留守中、豊臣秀吉の命で金森長近が白川郷に侵攻してきたのです。
白川郷の人々は金森軍に寝返り、帰雲城は金森軍に占拠されました。
内ヶ島氏理はやむなく秀吉に降伏しました。
しかし、秀吉は内ヶ島氏の所領を少し減らしただけで、内ヶ島氏の領地経営を許しています。
これは、秀吉が内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重要視したためだとされます。

④内ヶ島氏、天正地震で一瞬にして滅ぶ!内ヶ島氏理はこれを大いに喜んで宴会を計画し、その準備を進めていました。
一族も帰雲城に集まってきました。
そして明日はいよいよ宴会という日・・・
天正地震が起こり、帰雲城とその城下町の300軒の家は一瞬にして生き埋めになってしまったのです!
こうして内ヶ島氏は滅んでしまったのです。
帰雲城には内ヶ島氏が鉱山開発で蓄えた埋蔵金が眠っているといわれています。
⑤金閣寺と内ヶ島氏③で内ヶ島氏は鉱山開発に長けており、そのため足利義満に白川郷へ行くよう命じられた、と書きました。
足利義満は京都に金閣寺を建てていますが、金閣寺は大量の金箔が用いられていたことで知られています。
これらの金箔の中には内ヶ島氏が開発した金山の金を用いたものがあるかも?
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ありがとうございました!