法住寺 梅 『日本国第一の大天狗』 

京都市東山区 法住寺
2017年2月中旬撮影


法住寺 梅 
竜宮城の入り口?
いえいえ、法住寺の竜宮門です。

①後白河上皇の御所・法住寺殿

法住寺は988年、藤原為光が創建したお寺です。
1161年、法住寺を中心に後白河上皇の御所が作られ、法住寺殿と呼ばれました。

法住寺殿は広大な敷地を有し、南殿、西殿、北殿の三御所、東小御堂、不動堂、千手堂などのお堂が立ち並んでいたそうです。

現在の法住寺の隣には三十三間堂がありますが、これも法住寺殿の仏堂でした。

三十三間堂 通し矢 

三十三間堂 通し矢

②日本国第一の大天狗

源頼朝が後白河のことを『日本国第一の大天狗』と悪口を言っています。
なぜ頼朝は後白河を『日本国第一の大天狗』と言ったのでしょうか。

②今様を歌いすぎ、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言われる。


1127年、後白河は鳥羽上皇の第四皇子として生まれました。
1141年、同母兄の崇徳が鳥羽上皇の譲位を受けて即位します。

第四皇子の後白河は皇位継承とは無縁であったためか、たいへんな遊び人であったようですね。
特に今様が好きだったようです。
今様を現代語訳すると「現代流行歌」となります。
とにかく歌ばかり歌っていて、声が出なくなったりはしょっちゅうだったみたいですよ。

現代にもこんな人、いますね。(ハーイ!)

後白河のあまりの「今様」好きに父親の鳥羽上皇は「即位の器量ではない」と言ったとか。(愚管抄)
同母兄の崇徳は後白河を「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」とけちょんけちょんにけなしています。(平治物語)

法住寺 梅2 
③保元の乱

後白河の兄・崇徳天皇は鳥羽上皇に命じられて、1141年に異母弟(母親は藤原得子)の近衛天皇に譲位します。
このとき、譲位の宣命は「近衛は崇徳の皇太子」となるはずだったのが、「皇太弟」となっていました。
これはとても重大なことでした。
近衛が崇徳の皇太子であれば、崇徳は院政を行うことができたのですが、皇太弟では院政を行うことができなかったのです。

なぜこんなことになったのかというと、どうやら崇徳は父親の鳥羽に嫌われていたみたいなんですね。

崇徳は鳥羽の本当の子供ではなく、鳥羽の祖父の白河法皇の子だったようです。
もちろん系図では鳥羽の子とされていますが。

白河法皇は養女にしていた藤原璋子を、孫の鳥羽に入内させたのですが
このとき璋子は白河法皇の子を宿していた。それが崇徳だと言われています。
鳥羽は崇徳のことを、「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたそうです。
崇徳、かわいそう!平安時代の宮中って乱れてますね~。

1155年、近衛天皇は16歳で崩御してしまいます。
このとき崇徳はもう一度自分が天皇になるか、自分の息子の重仁親王の即位を期待したはずです。
ところが、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言わしめたできそこないの弟・後白河が即位してしまったのです。

後白河が即位したのは、後白河の息子の二条が藤原得子の養子となっていたからです。
鳥羽上皇は璋子よりも得子のほうを愛していたので、得子の養子の二条を天皇にしたかったんでしょうね。

ですが、このときまだ二条は3歳で幼かったのです。
それで父親の後白河が中継ぎの天皇として即位したわけです。

崇徳はこれに堪忍袋を切らし、後白河に対して挙兵します。(保元の乱)
結果、崇徳は敗れて讃岐へ流罪となりました。

法住寺 梅 

↑ こちらの写真は2016年3月初旬撮影です。(先日はまだ全然咲いていませんでした。)

④崇徳、生きながら天狗になる。

讃岐に流罪となった崇徳は反省して、五部大乗経を写本して、これを後白河に送りました。
ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃないの?」と疑ってこれを讃岐に送り返してしまいます。

崇徳激怒!

崇徳は舌を噛み切り、写本に血で、次のように書き込んだそうです。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

私は日本国の大魔縁(天狗道に堕ちた者?)となって、天皇を平民にし、平民を天皇にしてやる!
みたいな意味でしょうか。

そののち、平治の乱がおこって平家が権力を掌握し、さらには源頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷の権力は低下していくことになるので
崇徳の言葉どおりになってしまったといえるかも・・・。

そして崇徳は髪を伸ばし、爪も切らず、生きながら天狗になったと保元物語には記されています。

法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗 
法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗

⑤後白河は崇徳以上の天狗だった。

以上のことをふまえて源頼朝が後白河に対して「日本国第一の大天狗」と言ったことを考えてみるとオモシロイですね。
(「日本国第一の大天狗」とは高階泰経に対して言った言葉ではないかとする説もありますが)

後白河の兄、崇徳は生きながら天狗になった。
しかし後白河は崇徳以上の大天狗である、という意味でしょう。

頼朝が後白河を大天狗と評したのは、後白河が人を欺くはかりごとばかりしていた、という意味だと考えられているようですが
これについてはもっとじっくりと考えてみたいと思います。


後白河法皇法住寺陵 
法住寺の奥には後白河上皇の陵がありますよ。






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[2017/02/13 13:48] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)