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長岡天満宮 八条ヶ池 夕景 『菅原道真と在原業平はつるんで藤原氏を呪っていた?』 

京都府長岡京市 長岡天満宮
撮影・・・2017年1月中旬


 長岡天満宮 八条ヶ池 夕景

長岡天満宮の横にある八条が池


①業平と道真が大山崎を訪れたことは何の文献に記されているの?

長岡天満宮は菅原道真の所領があった場所であり、ここで在原業平と詩歌管弦を楽しんだと、長岡天満宮のhpに記されています。
http://www.nagaokatenmangu.or.jp/saijin.html

またウィキペディアには次のようにも記されています。

「在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F#.E4.BA.A4.E6.B5.81 より引用

しかし、業平と道真が大山崎を訪れたというのは、どのような文献に記されているのか、ウィキペディアは明らかにしていません。

もし、業平と道真の交流が記されている文献名を御存知の方がおられましたら、ぜひ教えていただいです。

長岡天満宮 社殿

長岡天満宮 社殿

②昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。


「大山崎」「在原業平」といえば、私は伊勢物語の「渚の院」を思い出します。
その冒頭の文章は次のようなものです。

「昔、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。」

惟喬親王は山崎(大山崎のこと)の向うにある水無瀬に宮を持っていたというのですね。

長岡天満宮 八条ヶ池 錦水亭 夕景  
八条が池 錦水亭

③惟喬親王の歌会

「渚の院」の続きはこんな話です。

桜の花が満開になると惟喬親王は毎年、水無瀬の宮に右馬頭(業平のことだと考えられています。)をつれていかれました。
そして交野の渚の院までやってきて、歌会が行われました。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)


散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)

※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。

他にも夜更けまで開かれた酒宴でのこんな歌も記されています。

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを /紀有常
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなければ月も入らないだろうから。)

渚の院 淡墨桜
 渚の院跡

④惟喬親王は怨霊だった。

惟喬親王は玄武神社、大皇器地祖神社、惟喬神社などで御祭神として祀られています。

古には神と怨霊は同義語だったといわれています。
怨霊は祟る、そこで祟らないように祀ったものが神だというのです。
陰陽道では祟りをなす怨霊は、祀り上げることで、人々にご利益を与えてくださる和魂になると考えていたようです。

政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊となると考えられていました。
そして天災や疫病の流行は怨霊の祟りによってひきおこされると信じられていたのです。

その怨霊の代表ともいえるのが、長岡天満宮の御祭神でもある菅原道真です。
菅原道真はたいへん才能のある人物で、菅原氏としては異例の右大臣にまで上り詰めた人物でした。
左大臣だった藤原時平は道真に嫉妬し、醍醐天皇に「道真は娘婿の斉世親王を皇位につけようとたくらんでいる」と告げました。
藤原時平の発言を聞いた醍醐天皇は道真を大宰府に流罪とし、数年後に道真は大宰府で死亡しました。
その後、都では天変地異や疫病の流行などがあり、これらは道真の怨霊の仕業であるとされました。

惟喬親王は文徳天皇の長子で、文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えていました。
そしてこれを源信に相談したところ、源信は当時の権力者・藤原氏を憚って天皇を諌めたそうです。
源信は文徳天皇にこんな風に申し上げたのではないでしょうか。

「紀静子を母親に持つ惟喬親王を皇太子にすることを、藤原良房は黙ってはいないでしょう。
藤原良房は朝廷一の権力を持つ男ですから。
天皇陛下には藤原良房の娘・明子との間に惟仁親王がいるではありませんか。
惟仁親王(のちの清和天皇)を皇太子になさいませ。」

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となってしまったわけです。
惟喬親王は政治的に不遇であり、そのため、死後怨霊として祀られたものと考えられます。

玄武神社 やすらい祭2 
玄武神社 やすらい祭 惟喬親王を祀っています。

⑤惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていた?


伊勢物語「渚の院」に登場する紀有常は惟喬親王の叔父です。
また在原業平は紀有常の娘を妻としていて、紀氏と関係の深い人でした。
惟喬親王の歌会は紀氏の集会だったといえるかもしれません。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)


散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。

染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)


「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。
④で、文徳天皇には紀静子との間に惟喬親王が、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があったことをお話ししました。

娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)

こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました

つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。

百人一首かるた

⑥菅原道真も歌を詠んで藤原氏を呪っていた?


そして惟喬親王の歌会のメンバーである在原業平と詩歌管弦を楽しんだという菅原道真もまた、和歌を詠んで藤原氏を呪っていたのかも?

登場人物の生没年を確認しておきましょう。

惟喬親王 844年ー897年
菅原道真 845年-903年
在原業平 825年―880年
紀在常  815年ー877年

菅原道真は惟喬親王と1歳違いで、惟喬親王の歌会に参加することは可能であったように思われます。
その惟喬親王の歌会が現在長岡天満宮のある道真の所領で行われたのかも?

しかし、それでは菅原道真はどのような歌を詠んで藤原氏を呪ったのか?
菅原道真の和歌をいくつか鑑賞してみましたが、よくわかりませんでした~。
もう少し考えてみます。



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[2017/01/17 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)