東京都千代田区 皇居(江戸城跡)
撮影 2016年11月18日あんまりいい写真ではなく本来ならばボツにするところなんですが
江戸について書きたい記事があったのでご勘弁ください~。(大汗)

皇居 正門石橋●「の」の字を描く江戸の町現在の皇居は徳川家が居城としていた江戸城跡にあります。
1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、1603年には江戸城に江戸幕府を開きました。
平城京や平安京は碁盤の目のように南北の大路と東西の大路が交差する条坊制の都市でした。
大宰府や多賀城も条坊制で作られています。
しかし家康は江戸を条坊制にはしませんでした。
江戸城を中心に「の」の字を描くように堀を作ったのです。
家康には天台僧の南光坊天海というブレーンがいました。
この天海が家康に江戸の町づくりについてあれこれ助言をしたと言われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.pngよりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像を
Safkanさんが加工されたものです。
●「の」の字はうず巻きで日本の中心をあらわす?
家康や天海はなぜ条坊制で町づくりを行わず、「の」の字を描く町にしたのでしょうか。
結論から先に申し上げると
それは江戸を新たな日本の中心にするためだったのではないかと私は考えています。
つまり「の」の字は渦巻きを表しており、江戸の渦巻きを中心にして日本が回るという呪術的仕掛けなのではないかと思うのです。
詳しく説明しますね。
●日振島はカシオペア座に喩えられていた?
京都の鞍馬寺境内に由岐神社があります。
由岐神社はもともとは宮中にあったのですが、天慶3年9月9日(940年10月12日)に鞍馬へ遷宮されました。
10月22日に行われている鞍馬の火祭は、由岐神社が遷宮される際の行列を再現したものだと言われています。
鞍馬の火祭が江戸とどう関係あるのかって?
まあまあ、もう少し話を聞いてください。
このころ、東国では平将門の乱が、南海では藤原純友の乱がおこり、朝廷は乱の平定に頭を悩ませていました。
朝廷は平貞盛・藤原秀郷らを東国へ派遣します。
平将門は彼らと戦っている最中、流れ矢に当たって死亡しました。
こうして平将門の乱は平定されました。
天慶3年2月14日〈940年3月25日)のことでした。
その後、7か月ほどたった天慶3年9月9日(940年10月12日)に由岐神社が鞍馬に遷宮されたわけですが
このとき、まだ藤原純友の乱は平定されていませんでした。
そこで由岐明神が鞍馬へ遷宮されたのは、藤原純友の乱平定を祈願するためではないかと私は考えました。
そして鞍馬の火祭は藤原純友の霊が海賊たちによって鞍馬に運ばれている様子を表しているのではないか、と思ったのです。
藤原純友は海賊の首領だったのです。

向かって右の男性が腕につけているのが船頭篭手鞍馬の火祭では氏子さんは腕に船頭篭手(せんどうごて)をつけていますが、鞍馬は山中なのに船頭って違和感があります。
氏子さんのいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちではないかと私は考えました。
で、鞍馬の火祭ではチョッペンといって、二人の青年があおむけになって脚をV字に開脚するという儀式があります。
二人でV字開脚するので、Wの形に見えますね。
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
藤原純友が本拠地としていた日振島はこんな ↓ 形をしています。
チョッペンは日振島を表していると思うのですが、どうでしょう?
そして日振島はカシオペア座にも似ています。
図①
カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。
図②

●チョッペンは天辺の方言?
宮崎地方では天辺(てっぺん)のことをチョッペンと言うそうです。
空の天辺にあるカシオペア座という意味で、チョッペンの儀というのかも?
●錨星
古の日本では、カシオペア座は北極星より下にあってW字形のときは錨星、北極星より上にあってⅯ字形のときは山形星と呼ばれていました。
図③
錨とは綱や鎖をとりつけて海底や川底に沈めるもののことで、海賊の首領・藤原純友と関係が深そうに思えます。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E9%8C%A8 (錨の画像)
●鳴門の渦潮は北極星を表す
加門七海さんは、将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと、北斗七星の形になると指摘されています。
藤原純友がカシオペア座の神ならば平将門は北斗七星の神だといえるでしょう。
日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星
カシオペア座と北斗七星は北斗七星をはさんで図④のように対面しています。
図④
ここまで考えて、思いついたことがありました。
日本のどこかにカシオペア座と北斗七星をつなぐ北極星があるのではないか?
そう思って地図をにらんでみると、日振島と将門関連史跡を結ぶ線上に鳴門の渦潮があるではありませんか~。
図⑤
詳しい説明は省きますが、鳴門の渦潮はほとんど右巻なのだそうです。(まれに左巻もあります。)
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
天空の星々は北極星を中心にして左回りに回ります。
ですが、 図②のように、星々が天球にはりついており、その天球の上から神様が地球を見下ろしたと考えると
神様には、星は右回りに回っているように見えるはずです。
日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星
鳴門の渦潮・・・北極星
古の人々は、日振島をカシオペア座、鳴門の渦潮を北極星に喩え、北斗七星の位置に将門関連史跡を定めたのかも?
そして日振島(藤原純友の本拠地/カシオペア座)と将門関連史跡(
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社/北斗七星)は鳴門の渦潮(北極星)に繋ぎ止め、その祟りを封じるという呪術が仕掛けられていたのではないかと思います。
そうだとすれば、これはなんとも壮大な呪術です。
●ちょっと言い訳~
図⑤の日振島↔鳴門の渦潮間の距離と、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離を比べてみると、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離の方がかなり長いですね。
カシオペア↔北極星間、北斗七星↔北極星間の距離はこんなには差がありません。
日本の正確な地図を作ったのは伊能忠敬で、地図が完成したのは伊能忠敬の死後の1821年のことです。
ですがそれ以前に用いられていた行基図にあてはめてみても、やはり日振島↔鳴門の渦潮間の距離よりも、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離のほうがかなり長いです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg(行基図)
北斗七星は将門関連史跡よりももう少し西の何かになぞらえられているかもしれません。
※追記
琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門討伐に派遣された人物です。
三上山にすむムカデとは平将門を比喩したものかもしれません。
すると琵琶湖が北斗七星に喩えられていたのかも?
●江戸は北極星になぞらえた町
ようやく江戸の「の」の字に戻ることができます。
昔の日本の最南端は九州、最北端は関東あたりまででした。
なので鳴門の渦潮あたりがちょうど日本の中心だったのです。
徳川家康と天海は、日本の中心を新たに江戸にしようと考えたのではないかと思います。
そのため、江戸を条坊制ではなく、「の」の字の町(渦巻きの町と言ってもいいでしょう。)としたのではないでしょうか。
上の地図を見ても東京(江戸)は北海道~九州のほぼ中心になっていますね。
江戸は北極星になぞらえた町として作られたのではないでしょうか?
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
いつも応援ありがとうございます♪
にほんブログ村

にほんブログ村