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金剛寺 菊薬師 『井上内親王が高齢出産した男児の正体とは』 


金剛寺・・・奈良県五條市野原西3-2-14
菊薬師・・・10月25日~11月10日

金剛寺 菊 

金剛寺 菊

●井上内親王、光仁天皇を呪詛する?

井上内親王は奈良時代の人物で光仁天皇の皇后でした。
そして井上内親王が産んだ他戸親王は光仁天皇の皇太子にたてられていました。

ところが772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪されてしまうのです。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わっ高野新笠を母に持つ山部王(のちの桓武天皇)が立太子しました。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去しました。

金剛寺 菊2 

金剛寺 菊

●藤原氏の陰謀?

いやー、この事件って本当におかしいですよね。
井上内親王は光仁天皇の皇后という安泰な立場でありながら、なぜわざわざ夫の光仁天皇を呪詛する必要があったのかなあと思ってしまう。
そういうわけで、井上内親王が光仁天皇を呪詛したというのはでっちあげで山部王を皇太子につけたいと考えていた藤原百川らの陰謀とする説が有力です。

金剛寺 菊3 

金剛寺 菊

●井上内親王、怨霊になる。

その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあります。
また『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されていますし、『水鏡』には次のようにあります。
『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。
また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』

井上内親王陵 
井上内親王陵

●井上内親王ゆかりの地・五條


井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)でした。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていました。

また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという伝説があります。
このとき井上内親王は56歳です。これが本当なら随分と高齢出産だったわけです。
井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった いわれます。

その他、五條市には井上内親王陵・他戸親王陵もありますし、産屋峰で出産した若宮を祀る若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ)もあります。

790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺(現存せず)が創建されています。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるそうです。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたでしょう。

御霊神社(奈良県五條市) 木漏れ日 
御霊神社(五條市霊安寺町)


●井上内親王を祀る金剛寺

五條市内にある23の御霊神社のうちのひとつが、金剛寺のすぐ近くにありました。(写真はありません。すいません。)
そして金剛寺はその御霊神社の宮寺(神社を管理するために置かれた寺)でした。

金剛寺の本堂には、御本尊の薬師如来の他、日光菩薩・月光菩薩・十二神将などが祀られていました。
あと、阿弥陀如来があって節分の日に開帳されるそうです。

観音堂の仏壇には円形の鏡が置いてあり、その後ろに小さな2体の観音像が安置されていました。 
明治初期の神仏分離令の際に、天満宮・御霊宮にあった十一面観音、准胝観音がここ金剛寺に移されたのだそうです。
鏡は神仏習合の名残なのでしょう。(神社にはたいてい鏡がかけてありますね)

お寺の方に、准胝観音は井上内親王と他戸親王、十一面観音は菅原道真だと説明を受けました。

●本地垂迹説

日本では古くから神仏は習合されて信仰されていましたが、そのベースとなったのが本地垂迹説という考え方です。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(天照大神・菅原道真・井上内親王など)は仏教のみほとけが仮に衆上を救うために仮に姿を著したものであるとする考え方のことです。
そして日本古来の神々のことを権現、仏教のみほとけのことを本地仏といいました。

北野天満宮の西隣にある東向天満宮には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことです。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味なんですね。

准胝観音は井上内親王・他戸親王の本地仏なのでしょう。

●雷神になった井上内親王の子と菅原道真の関係

金剛寺は井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社の宮寺なので、井上内親王と他戸親王を祀る准胝観音を祀っているのはわかります。
だけどなぜ井上内親王とは関係がなさそうな菅原道真の本地仏である十一面観音を祀っているのでしょうか?

井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった という話を思い出してください。

この天満宮にあったとされる十一面観音はもともとは菅原道真ではなく、井上内親王が産んでのちに雷神となった男児ではないでしょうか?

●北野天満宮にはもともと火雷神が祀られていた。

『水鏡』には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。』とあり、777年の干ばつは井上内親王の怨霊の仕業だと考えられたことがわかります。

菅原道真の生没年は845年ー903年なので、このころまだ菅原道真は世の中に存在していませんでした。
そして道真の死後、930年に清涼殿に落雷があり多くの死傷者が出、これは雷神となった道真の怨霊の仕業であると考えられたようです。

そして947年、京都に北野天満宮が建立され、道真が御祭神として祀られるようになたわけですが
もともとこの北野天満宮があった土地には火雷神が祀られていたというのですね。
つまり、菅原道真はもともと北野に祀られていた火雷神と習合された結果、北野の地に祀られるようになったのではないでしょうか。

●神の名前は襲名される?

津守国基 (1023-1102)という住吉大社の神主が、和歌の浦に住吉のお堂の壇に用いる石を探してやってきて、こんな歌を詠んでいます。

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫
(長い年を生きてきただろうに、年老いることもなく、和歌の浦に鎮座して幾代になるのだ、玉津島姫よ。)

和歌の浦は和歌山県にあり、かつてここに玉津島神社がありました。

で、詞書を読むとこんなことが書いてあります。

「この歌を詠んだ夜の夢に、唐衣を着た女房が10人ほどあらわれて、ちょうどいい石はこれだよと教えてくれた。」

唐衣を着た女房が10人ほどあらわれたというのは、玉津島姫は10人いるということなのではないでしょうか。
もしかして、歌舞伎のように、次々に新しい神が玉津島姫の名前を襲名するので、女神はいつまでも年老いることがないのかも?

そう考えると、火雷神(雷神)もまた、次々に新しい神が火雷神の名前を襲名するのではないでしょうか。


「えっ、ということはつまり北野に祀られていた火雷神って井上内親王が産屋峰で産んだ雷神のこと?」
と思われたでしょうか?

北野に祀られていた火雷神は井上内親王が産んだ雷神ではないと思いますが、これについてはまた後日お話しできればと思います。

でも五條の天満宮のもともとの神は、菅原道真ではなく井上内親王が産んだ雷神ではないかと思います。

五條付近 吉野川 夕景 
五條市 吉野川


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)