京都市北区 上賀茂神社
笠懸神事 10月第3日曜日
●後鳥羽院が催した笠懸笠懸とは馬上から鏑矢を放って的をいるものです。
流鏑馬(やぶさめ)とどう違うのか、よくわかりません。ご存知の方、教えてください!
1214年、後鳥羽院が上賀茂神社に行幸した際、笠懸(かさがけ)が催されました。
後鳥羽院は武芸が得意だったので、笠懸に興味があったのでしょう。
笠懸は流鏑馬よりも実践的なんだとか。
1221年、後鳥羽院は王権復権のため鎌倉幕府軍と戦っています。(承久の変)
後鳥羽院が武芸に熱心だったのは、鎌倉幕府軍と戦うたの準備だったのかもしれませんね。
しかし後鳥羽院は敗れ、隠岐に流罪となりました。
その後、上賀茂神社では長年笠懸が行われることはありませんでした。
復興したのは2005年だそうです。
●後鳥羽院と藤原定家・藤原家隆
後鳥羽院は武芸のほか和歌も得意でした。
この時代の代表的歌人・藤原定家や藤原家隆とも交流がありました。
1200年、定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽院から新古今和歌集の撰者に任命されました。
ところが、歌の選定をめぐり定家は後鳥羽院と争ってしまいます。
1220年、怒った後鳥羽院は定家の歌会への参加を禁じました。
でもこのことは定家にとって災い転じて福となったのです。
先ほども述べたように、1221年、後鳥羽院は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからです。
承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ちました。そして官位をあげ、歌壇の頂点に立ったのです。
一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も隠岐の後鳥羽院と連絡をとりつづけました。
●「荒き波風」「そよ風」「夕凪」を無風状態に転じた定家の歌織田正吉さんは、後鳥羽院と藤原家隆・藤原定家の歌は風をテーマとして対応しているのではないか、とおっしゃっています。
われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け/後鳥羽院
(私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。)
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける /藤原家隆
(風が戦ぐならの小川の夕暮れ。夏越祓の禊をする風景だけが夏のしるしなのだなあ。)
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ/藤原定家
(いくら待っても訪れてこない恋人を待ちこがれている私は、あの松帆の浦(淡路島)で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、身もこがれるほど に苦しんでいます。
隠岐の荒い波風は承久の変に敗れた後鳥羽院の怒りの心を表しているのでしょう。
この後鳥羽院の怒りを静めてほしいという気持ちから、家隆は「そよ風」、定家は「夕凪(夕方の無風状態)」を歌に詠んだのではないかというのですね。
●お盆で戻ってくる霊の気配を詠んだ藤原家隆
家隆の歌について、もう少し詳しく見てみることにしましょう。
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける /藤原家隆
(風が戦ぐならの小川の夕暮れ。夏越祓の禊をする風景だけが夏のしるしなのだなあ。)
この歌は上賀茂神社の夏越神事を詠んだ歌で、一般的には次のように現代語訳されます。
「涼しい風がそよぐならの小川はすっかり秋らしい気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」と。
でもこの訳は間違いだと私は思います。
夏越神事は旧暦の六月の晦日に行われる行事でした。新暦に換算すると7月ごろです。
旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていたのです。
つまり旧暦では最も暑い時期に秋の始まりを迎えていたわけで、家隆は涼しい風が吹いたからすっかり秋らしくなったと歌を詠んだのではないと思うんです。
夏越神事が行われる6月晦日の翌日は7月1日、この日はは釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていました。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていました。
家隆は楢の葉がざわつくようすに、お盆であの世からこの世に戻ってきた霊の気配を感じたのではないでしょうか。
(参照/
上賀茂神社 夏越神事 『旧暦の夏の終わりはお盆の始まり』 )
上賀茂神社 夏越神事●楢葉守上賀茂神社の禊川が「ならの小川」呼ばれているのは楢の木がたくさん植えられているからだそうです。
そこで『楢』を古語辞典でひいてみると『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とあり、文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていました。
古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかります。
しかもその神は祟る神、怨霊なんですね!
お盆には先祖の霊とともに悪霊も戻ってくると考えられていたといいます。
楢の木をざわざわと戦がせたのは楢葉守でしょうか?
笠には赤い顔をした人形の頭のようなものがついていました。これは何でしょうか?
※追記
キャロットさんが教えてくださいました。ありがとうございました。
鬼面といって魔除けなのだそうです。
上賀茂神社の笠懸神事は武田流で行われました。小笠原流では鬼面はついていないとのことです。
流鏑馬の写真を撮るのがうまいキャロットさんのブログはこちら→Aunt Carrot’s Blog
●
新島守と楢葉守
後鳥羽院が詠んだ歌は
われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹けでしたね。
家隆の
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりけるという歌の中には楢葉守という言葉は出てきませんが、どうやら楢の葉を戦がせたのは楢葉守のしわざのようです。
そういうわけで、二つの歌は「新島守」と「楢葉守」で対応しているように思えます。
新島守とは後鳥羽院のことですが、楢葉守もまた後鳥羽院のことを指しているように思えます。
荒い波風を吹かせる後鳥羽院の怨霊は、上賀茂神社の夏越神事によって穢れが祓われ、風の勢いが弱まってそよ風になったという意味なのかも?
●生霊家隆の歌は詞書から1229年に詠んだ歌であることがわかります。
1221年の承久の変から8年目ですね。
後鳥羽院の生没年は1180年-1239年なので、家隆がこの歌を詠んだとき、まだ後鳥羽院は生きておられました。
ですが、源氏物語には六条御息所が生霊になって葵上を殺してしまうという話があります。
楢の葉をざわつかせたのは後鳥羽院の生霊だったのかも?
あるいは後鳥羽院の呪いが楢葉守となって楢の葉をざわつかせたのかもしれません。
●家隆はなぜ上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのか。
夏越祓の行事は上賀茂神社だけで行われる神事ではなく、多くの神社で行っています。
それなのに家隆はなぜ上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのでしょうか。
家隆は1214年に後鳥羽院が上賀茂神社で催した笠懸を思い出し、それで上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのではないでしょうか?
腕を伸ばしてライブビュー撮影するしか仕方なく・・・。
翌日、肩が凝って熱まで出て一日寝込みました~。腕力をきたえなきゃね~(とほほ)
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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