京都市南区 六孫王神社
宝永祭・・・体育の日 (確認をお願いします。)
☆ 六孫王神社の氏子さん方にはおにぎりまでごちそうになり、ありがとうございました。 美味しかったです!
●清和源氏の祖・源基経六孫王神社の御祭神は源経基です。
源経基は清和源氏の祖とされている人物です。
源経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で、六男の孫なので皇室では六孫王と呼ばれていました。
経基は15歳のとき元服し、その際先例に従って臣籍降下し、源の姓を賜わりました。
しかし経基は臣籍降下させられたことがとても不満だったようです。
●臣籍降下させる基準当時の朝廷で臣籍降下させる規準とはどういうものなのだったのでしょうか。
嵯峨天皇・仁明天皇・文徳天皇・清和天皇の皇子たちのうち、皇后を母に持つ皇子が臣籍降下した例はありません。
それ以外の皇子の多くは臣籍降下し、皇子が臣籍降下しない場合でも、皇子の子、すなわち天皇の孫にあたる王の多くが臣籍降下しています。
経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子なので、源経基の臣籍降下は当然のことのように思われます。
●源経基は陽成天皇の孫で元平親王の子だった?ところが、経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子ではなく、実は陽成天皇の子・元平親王の子だとする文書の写しが発見されています。(石清水八幡宮田中家文書)
星野恒氏は石清水八幡宮田中家文書の記録から、次のようにおっしゃっています。
「陽成天皇は凶暴性があるとして藤原基経に退位させられている。
清和源氏はそのように評判が悪い天皇の子孫を名乗るのを憚って一代前の清和天皇の子孫を名乗ったのではないか」と。
塔百景22
●陽成天皇には凶暴性があった?
876年、陽成天皇は9歳で即位しましたが在位中に一人も正式な妃を入内させていません。
これは前例のないことでした。
そして、884年、17歳のとき源益を殴殺するという事件をおこした結果、凶暴性ありとして摂政の藤原基経に退位させられています。(源経基に藤原基経・・・ややこしいですね~。)
●陽成天皇の父親は在原業平だった?私は陽成天皇に凶暴性があったということを、頭から信用することはできないと思っています。
というのは、陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子ではないかとする説があるからです。
陽成天皇の父は清和天皇、母は藤原高子だとされていますが、伊勢物語には在原業平と藤原高子がが駆け落ちしたという記述があります。
高子はすぐに兄の藤原基経に連れ戻されてしまい、駆け落ちは未遂に終わるのですが。
のちに高子の兄の基経は陽成天皇の摂政となりました。
ふつうに考えれば基経の甥・陽成天皇が天皇であることは、基経にとって都合のいいことであったはずです。
陽成天皇が殺生事件を起こしたというのが仮に本当だったとしても、普通なら全力で事件のもみ消しにかかるところではないでしょうか。
それをあえて退位させているところをみると、陽成天皇は業平の子供だったのではないかと思ってしまいます。
在原業平は清和天皇の異母兄の惟喬親王の寵臣であり、惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたとする説もあって、藤原基経とは犬猿の仲だったと想像されます。
そのため、陽成天皇が業平の子であると知った基経は陽成天皇を退位させたのではないでしょうか。
●皇太子になれたかもしれないのに!陽成天皇は退位後に藤原遠長女とのあいだに元良親王と元平親王という皇子をもうけました。
陽成天皇の后妃の中で藤原氏の女性は藤原遠長女だけであり、陽成天皇が若くして退位しなければ、藤原遠長女が皇后となっていたことでしょう。。
そうであったならば元平親王は天皇となり、元平親王の子の源経基が皇太子になる可能性もありました。
経基の不満はそこにあったのではないでしょうか。
塔百景23毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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