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東光院 萩 『天然痘を流行らせる神』  


大阪府豊中市 東光院
2013年9月29日 撮影


東光院 萩 山門 
 

●民衆に火葬の方法を教えた行基

東光院は735年に行基が薬師如来を本尊として開いた寺で、もとは豊崎村(現在の大阪市北区中津)にありました。
大正3年(1914年)に中津から豊中市南桜塚に移ったそうです。

行基は豊崎村で民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げたという伝説が、東光院には伝えられています。

東光院 道了大権現 

 
●東光寺創建と舎人親王・新田部親王の薨去

行基によって東光寺が創建された735年、舎人親王と新田部親王が薨去しています。

舎人親王と新田部親王はどちらも『長屋王の変』に関係する人物です。

●長屋王の変

729年、朝廷に『長屋王が左道を学んで国家を傾けようとしている。』という密告がありました。
左道とは「よくない道」「不謹慎な道」という意味です。
長屋王が不謹慎な呪術を学んでいる、というような意味でしょう。
これを受けて長屋王の取り調べを行ったのが舎人親王と新田部親王だったのです。

厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺し、妃の吉備内親王と子の膳夫王も共に死にました。

●長屋王の変の真相

当時、長屋王は政界トップの左大臣という地位にあり、また長屋王の子の膳夫王は次期天皇候補ナンバーワンでした。
これを妬んだ藤原四兄弟(藤原不比等の子。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が長屋王を排斥するために仕組んだ陰謀だったと考えられています。

東光院 萩

●藤原四兄弟、長屋王の祟りで死ぬ。


長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立しました。
ところが737年に藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって亡くなり、長屋王の怨霊の仕業であると噂されました。

●舎人親王・新田部親王の死も長屋王の祟り?

新田部親王と舎人親王が死んだのは四兄弟が死亡する2年前のことでした。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていませんが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、新田部親王と舎人親王も天然痘にかかって亡くなったのではないでしょうか。

すると新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことでしょう。

●トガノの鹿

日本書記の『トガノの鹿』の物語では雄鹿が殺されて塩を振られているとありますが、謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人を表しているのではないかとする説があります。

また萩の別名を「鹿鳴草」といい、萩もまた謀反人を表しているのではないかとする説もあります。

萩が咲き乱れる東光院は謀反人を慰霊するための寺なのかもしれませんね。

東光院 萩 階段

●謀反人は庶民として葬られた?

772年に亡くなった道鏡は、弓削氏とされますが、志貴皇子の子だったとする史料もあります。
志貴皇子の子であったとすれば、道鏡は皇族だったということになります。
女帝で子供のなかった孝謙天皇は、次期天皇を道鏡にしたいと考えていましたが
それは道鏡が皇族であったからかもしれません。
(一般には道鏡は皇族であったとは考えられていませんが)
孝謙天皇が急死したのち道鏡は失脚し、下野国へ流罪となって亡くなりました。
そして庶民として葬られたそうです。

それより少し前の729年に自殺した長屋王も庶民として葬られたのかも?
すると、行基が火葬を教え、謀反人の象徴である萩の花を供えた民衆とは長屋王のことで、東光院は長屋王の霊を祀る寺なのではないかなあ、と思えてくるのです。

感染症法第30条

また、感染症法第30条では天然痘患者の死体は原則火葬と決められているようです。
http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/j-terr/2004/0514-1/12.html

これは、火葬にすることで、病原菌が他者に伝染しないようにするためでしょう。
もしかして、行基は火葬が天然痘の流行を防ぐことをを知っていたんでしょうか?

東光院 萩 地蔵 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/07 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)