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奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

  
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより


 奈良豆比古神社 翁舞 千歳

千歳の舞


以前の記事、百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  もよかったら参考になさってくださいね。

●能「翁」のルーツ?

能に「翁」という演目がありますね。

奈良豆比古神社は古くより芸能の神として信仰され、芸能に携わる役者さんたちは興行前に奈良豆比古神社を参拝する習慣があったと聞いたことがあります。

奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁」の古い形態を残しているとも言われます。
もしかしたら奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁のルーツ」なのかも?

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2  

舞台上で面をつけるのは「翁」だけです。

●ふたつの伝説


奈良豆比古神社には『翁舞』に関係する次のような伝説が伝えられています。

①志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王にはの二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)があり、心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。
 
奈良豆比古神社 翁舞 白式尉 
白式尉

②志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。
 
 
ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
三人翁は能「翁」にはありません。
  
●春日王と志貴皇子は同一人物では?

また春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

●浄人王は弓削浄人?!

①の伝説によると、「桓武天皇は春日王の子の浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた」とあります。
ということは、浄人王は臣籍降下して弓削浄人と呼ばれるようになったということでしょうか。
弓削浄人という名前には聞き覚えがあります。
道鏡の弟の名前が弓削浄人なのです!

●道鏡は志貴皇子の子?

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
道鏡の俗名はわかっていないのですが、安貴(①の伝説に登場する春日王の子。浄人王の兄弟)という名前だったのではないでしょうか?

これが正しければ、道鏡は志貴皇子の子で天智天皇の孫だということになります。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉3

●称徳天皇が道鏡を次期天皇にしたいと考えたのはなぜ?

道鏡は奈良時代の僧侶で、称徳天皇に仕えていました。
称徳天皇は女性として初めて皇太子になった方で、結婚が許されず、独身でした。
そのため世継ぎとする子供がなく、称徳天皇は道鏡を天皇にしたいと考えていました。

称徳天皇が道鏡を天皇にしようと考えたのは、道鏡が志貴皇子の子だったからなのではないでしょうか?
(もしかしたら臣籍降下していたかもしれませんが)

●称徳天皇がカンカンになって怒った理由

宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にすべし』との神託が降り、称徳女帝はそれを確認させるために和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しています。
都へ戻った和気清麻呂は清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ(天皇は必ず皇族の血筋のものとするべし)』と奏上して道鏡は次期天皇にふさわしくないとしました。
これを聞いた称徳天皇は激怒したそうです。

道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、彼は皇族の血筋だといえます。
称徳天皇崩御後、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となっており
ここから考えても、道鏡が志貴皇子であったとする私の仮説が正しければ、彼には十分次期天皇になる資格があったといえるでしょう。

称徳天皇が怒るのも無理はないでしょう。
よほど頭にきたのか、称徳天皇は清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」姉の広虫を「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させて流罪としています。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

黒式尉も舞台上で面をつけます。


●称徳天皇急死、そして道鏡の失脚


しかし事件後まもなく称徳天皇は急死しました。暗殺されたのではないか、ともいわれています。
これによって道鏡は失脚し下野国の薬師寺へ左遷(配流)され、2年後に死亡して庶民として葬られました。

●日本紀などは、たゞ、片そばぞかし

紫式部は『源氏物語』の中で光源氏に「『日本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、道みちしく、くはしき事はあらめ』と言わせています。

これは『日本書紀に書かれていることなどほんの一部分でしかない、物語の中にこそ真実が詳しく記されている』というような意味です。

紫式部は正史には嘘が多いことを知っていたのですね。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/08 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)