ストロボの影を出さないようにするためには、デュフューザー使ったりするとある程度効果があると思うんですが
すでに撮った写真のストロボの影って消せないでしょうか~?誰か、教えて!
ある程度はフォトショップのコピースタンプで消したんですが、複雑なところはどうやって消したらいいかわからず(涙)
見苦しい写真ですいません~。
●紀伊郡『月刊 京都史跡散策会47号」には次のように記されています。
社伝によれば貞観4年(862)9月、境内に清泉が湧出し、水はかんばしくて四方に薫じ、病者はこれを服用すれば病気はたちまち癒ゆるといわれていました。これに因んで御香宮と称し、地名も石井郷(紀伊郡)と呼ばれたと伝えています。 http://www.pauch.com/kss/g047.htmlより引用
今も境内から水が湧いていて、ペットボトルを持って水を汲みに来る人の姿をよく見かけます。
境内に湧き出した水が芳しいので神社名を御香宮とするのはわかるのですが、これが石井郷(紀伊郡)という地名の由来とどう関係があるのか、よくわかりません。
石の井戸なので石井なのでしょうか?
紀伊という言葉は貴井からくるというようなことなのでしょうか?
●紀伊郡は紀氏の土地?それはともかく、このあたりの地名が紀伊郡だったということは大変興味深いです。
現在の和歌山県、三重県南部地方はかつて紀伊の国と呼ばれていました。
紀伊の国は紀の国とも呼ばれていましたが、紀の国という地名は、このあたりを本拠地としていた紀氏という氏族の名前からくる、という説があります。
そして御香宮のある伏見周辺の土地はかつて紀氏が所有する土地であったため紀伊郡とよばれていたのだと聞いたことがあります。
それが秦氏や藤原氏が権力を握るにつれ紀伊郡は秦氏や藤原氏の土地となっていったというのです。
●紀氏と確執があった清和天皇ウィキペディアの「御香宮神社」の項目には次のように書いてあります。
初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A6%99%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BEより引用
ここに清和天皇という名前が出てきますが、清和天皇は紀氏と確執があった人物なのです。
●世継ぎ争い清和天皇(惟仁親王/これひとしんのう)は文徳天皇の第四皇子で、母親は当時の権力者・藤原良房の娘の藤原明子でした。
文徳天皇には紀名虎の娘・紀静子との間に第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)もあり、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいとの考えを源信に相談しています。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたそうです。
こうして惟仁親王は生まれたばかりで皇太子となり、9歳で即位しました。(清和天皇)
まだ幼い天皇に政治がとれるはずがなく、外祖父の藤原良房が実質的な政治をとっていました。
●惟喬親王は怨霊だった。世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は京都の玄武神社や惟喬神社、志賀の大皇器地祖神社などに御霊として祀られています。
かつて疫病の流行や天災は怨霊の祟りでひきおこされると考えられていました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
その怨霊が祟らないように慰霊されたもののことを御霊といいます。
すなわち、惟喬親王は怨霊であったと考えていいでしょう。

●祟り神は祀り上げると守護神になる。ウィキペディアの「祟り神」の項目に次のように記されています。
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A%E7%A5%9E
より引用
●御香宮は惟喬親王を慰霊する神社?御香宮とは惟喬親王を慰霊する神社なのではないでしょうか。
清和天皇は惟喬親王よりも早く崩御されているので、清和天皇が惟喬親王を御霊として祀ることはできない、とおっしゃられるかもしれません。
「清和天皇が御香宮という神社名をおくった」という社伝は史実ではないと思います。
おそらくのちの藤原氏の誰かがもともとあった御室神社にを惟喬親王を御霊としてまつって御香宮とあらため、「清和天皇が御香宮という神社名をおくった」という伝説を創作したのだと思います。