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迎稱寺 萩 『迎稱寺は平将門を慰霊する寺?』 

京都市左京区 迎稱寺
2010年10月2日 撮影



迎稱寺-萩

●萩は謀反人を象徴する花だった?


雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (日本書紀/トガノの鹿)

トガノの鹿の物語は、鹿の夏毛の白い斑点を、塩に見立てたのではないかと思います。

そして、謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。
また、萩は別名を鹿鳴草といい、萩もまた謀反人を象徴するものではないかとする説があります

大仏殿 鹿のカップル
   
奈良市東大寺にて

萩の白い花もまた塩を振ったように見えます。
それで萩の別名を「鹿鳴草」というのではないでしょうか。

萩の紫色の花のほうは、雄鹿に恋する雌鹿をあらわしていると思います。

①紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも/大海人皇子
(紫草のように美しいあなた。あなたが憎ければ、人妻と知りながら、こんなに恋い焦がれずにいられるものを。)

②紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/詠人知らず
(顔をぽっと赤らめた海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
※紫色に布を染める際、媒染剤として椿の灰をいれると鮮やかに染まったのだそうです。

この2つの歌を鑑賞すると、女が男に恋する様子を紫と表現していたのかな、と思えるからです。
 
すると萩の花が咲き乱れる 迎稱寺は、もしかして謀反人を慰霊するお寺なのでしょうか?

●迎稱寺の開基

この迎稱寺の創建には二つの言い伝えがあります。

①もともとは天台宗のお寺で一条道場と呼ばれていたのを、鎌倉時代に一遍(1239-1289/時宗の開祖)が時宗にあらためた。
②1328年、六代目時宗法主の他阿一鎮が開いた。

●尊敬する空也に倣って踊念仏を行った一遍

六波羅蜜寺 

一遍が踊念仏を行った六波羅蜜寺

一遍(1239-1289)は全国を遊行しながら念仏札を配り、踊念仏をしました。

踊り念仏の創始者は空也です。
一遍は空也を尊敬しており、空也にならって踊念仏を始めたそうです。

念仏札には「決定(けつじょう)往生/六十万人」と記されていました。
これは「60万人の人を往生させる」という意味でしょうか。

一遍は京都の六波羅蜜寺や四条釈迦堂(現在の染殿院)でも踊念仏を行っています。

 ← 一遍が四条釈迦堂で踊念仏を行ったシーンを描いたものです。(一遍上人伝絵巻 )

染殿院 

染殿院

●空也は平将門の怨霊鎮魂霊に情熱を注いだ人だった。

空也上人といえば、踊り念仏の創始者であること、疫病が流行った際、病人に梅干と結び昆布をいれたお茶を飲ませたエピソードなどが知られています。

なぜかあまり語られることがありませんが、空也上人は平将門の怨霊鎮魂に情熱を注いだ人でもありました。

940年、平将門は東国に独立国を作って新皇を名乗りました。
朝廷は平貞盛、藤原秀郷らを討伐軍として東国へ派遣します。
平将門は討伐軍と戦った際、流れ矢にあたって死亡しました。
将門の首は京に持ち帰られ、鴨川のほとりに晒されました。 

神田明神


京都の膏薬図子に神田神宮と称する小さな祠があり、「天慶年間、平将門ノ首ヲ晒した所也。」と説明書があります。 

将門の首は事あるごとに近隣住民に祟りました。
そこで空也上人はここに念仏道場を立て、将門の霊を慰めたと言われています。 

●空也の愛した鹿

京都市中京区にある空也堂は空也を開基とし、平貞盛が創建した寺とされています。
平貞盛についてははさきほど少しお話ししました。
そう、平将門討伐のため、朝廷によって東国に派遣された人でしたね。
空也堂には次のような伝説が伝わっています。

空也は鹿の鳴声を愛していましたが、あるとき平定盛(平貞盛のことだと思われます)がその鹿を殺してしまいした。
空也は大変悲しんで、鹿の毛皮で衣を作り,角を杖の頭につけて念仏を唱えました。
定盛は鹿を殺したことを悔い、空也の弟子となって空也堂を立て、空也を開基としました。


平貞盛は平将門の討伐を行った人物なので、上の伝説の鹿とは平将門を比喩したものだと考えられます。
そして先ほどお話ししたように、平貞盛が開基とした空也は平将門の慰霊に情熱を注いだ人でした。

空也が始めたとされる踊念仏は、平将門の怨霊を鎮魂する目的で行われたのではないでしょうか?

すると空也に倣って踊念仏を始めた一遍も、平将門の怨霊を鎮魂する目的で踊念仏を行ったのではないかと思えます。


空也堂 歓喜踊躍念仏 
空也堂 歓喜踊躍念仏

●将門の首塚

京で晒された将門の首は三日後に東国へ向かって飛び、生まれ故郷に戻って落ちたという伝説があります。
将門の首が落ちたとされるのは現在の東京都千代田区で、平将門の首塚があります。(行ったことはないんですが~)

一遍の死後、一遍のあとを次いだ他阿真教は、1307年に将門の首塚(東京都千代田区)の前を通りかかり、近隣住民が将門の祟りに困っていることを知ります。
そこで将門に「蓮阿弥陀仏」と法名を贈り、天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)に改め、芝崎道場としています。

●迎稱寺は平将門を慰霊する寺?

もう一度、迎稱寺に戻りましょう。
迎稱寺の開基は、時宗の開祖の一遍、または六代目時宗法主の他阿一鎮とされているのでしたね。

一遍が尊敬していた空也は平将門の怨霊鎮魂に情熱を注いだ人でしたし、一遍が空也に倣って踊念仏を行ったのも平将門鎮魂を目的としていたのではないかと思えます。
また、時宗の他阿真教も将門慰霊のために柴崎道場をもうけています。
時宗はまるで平将門鎮魂を目的とした宗派のようではないですか。

その時宗の開祖・一遍または六代目宗法主の他阿一鎮が開いたお寺ということは
迎稱寺は将門を慰霊するお寺なのではないでしょうか?

そして迎稱寺に植えられている萩は、空也が愛した鹿=謀反人=平将門を象徴するものなのかも、と思ったりします。

迎稱寺-萩2



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/02 01:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)