大阪市中央区 大阪城
大阪市天王寺区 一心寺 安居神社
↑ 2009年に行われた大阪城『城灯りの景』を撮影したものです。
2013年度は西の丸庭園がモトクロスの大会を行ったため荒れてしまって『城灯りの景』は中止になったそうです。
それ以降、『城灯りの景』は行われていないのかも?
ググっても出てこないので~。
●豊臣秀吉が築城した大阪城1583年ごろ、羽柴秀吉が大坂城・築城を開始しました。
1598年、秀吉が亡くなり、1599年には豊臣秀頼が大坂城本丸へ居住しました。
五大老の徳川家康も大坂城西の丸で政務を執りました。
ただし、現存する遺構のほとんどは江戸時代に江戸幕府が作ったものだそうです。
それでも秀吉を愛する大阪の人々は、大阪城を「太閤さん(豊臣秀吉のこと)の城」と呼んでいます。
●大阪の陣1614年、徳川家vs豊臣家の戦い「大阪の陣」が起こりました。
大阪・天王寺公園にある茶臼山は大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(豊臣方)が本陣を置いたところです。
●一心寺にある本田忠朝の墓
↑茶臼山の北に一心寺があります。
↑ 一心寺には大坂夏の陣で討死した本田忠朝(徳川方)の墓があります。
本田忠朝は「大坂冬の陣」において飲酒が原因で敗退し、家康より叱責を受けました。
「大坂夏の陣」ではその汚名を挽回するべく、毛利勝永軍に正面から突入して戦死しました。
臨終の際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言ったとか。
現在では本田忠朝は「酒封じの神」として信仰され、本田忠朝の墓には「断酒祈願」をする参拝者が絶えません。
あなたも参拝する?
●真田幸村終焉の地・安居神社
↑ 一心寺の北に安居神社があります。
真田幸村は15,000の松平忠直隊を破って家康本陣に攻め込み、家康に自害を考えさせるほどでした。
しかし幸村は安居神社で味方の傷ついた兵士を看病していた際、敵に襲われました。
「わしの首を手柄にされよ」
幸村はそう言い、敵に首を討ちとられました。
●大阪城炎上1615年5月8日、松平忠直・井伊直孝らの軍勢が大阪城に攻め込みました。
豊臣秀頼と母・淀君は山里曲輪(やまざとくるわ)の隅矢倉に逃げ込みましたが、矢倉に鉄打ち込まれた鉄砲から出火して大坂城は焼け落ちてしまいました。
↑ 2009年 大阪城 城灯りの景では、真田陣太鼓の演奏がありました。
太鼓の激しいビートは大坂の陣で散っていった武将たちを思い出させます。
●六文銭
●穴あき銭は何をデザインしたもの?でも、この永楽通寶のデザインについては思い当たることがあります。
円形で中央に四角い穴があいた銭は「穴あき銭」「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」などと呼ばれていたようです。
↑ そういえばうちに古い硬貨があったなあ、と思い出し探してみたところ、寛永通宝が見つかりました。
寛永通宝は江戸時代に流通していたものですが、永楽通寶と同じような穴あき銭です。
ちなみに販売価格は1枚せいぜい数十円から100円くらいで価値のあるものではありません。(中には5万円以上の値がつくものもあるそうです。)
穴あき銭は天円地方のデザインになっています。
天円地方とは古代中国の宇宙観で、天は円形、地は方形であるとする考え方のことです。
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[2016/08/31 00:00]
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