千葉県木更津市 旧安西家住宅 ●旧安西家住宅
丘の上に茅葺屋根の家を発見!

使い込まれた農作業の道具が置いてあります。
ちょっとお邪魔させていただきましょう~♪
玄関を入ると、土間の奥に素敵なカントリーキッチン(竃)が!
水道の蛇口は竹でできていました。
土間をあがったところには囲炉裏がありました。
古民家が好きであちこち見に行ってますが、関西では囲炉裏がある民家をみかけたことがありません。
関西はとにかく夏が暑いため囲炉裏が作られなかったようです。
かわりに火鉢が用いられることが多かったそうです。
↑ これは大阪府堺市の和田家住宅。写真向かって右に関東長火鉢が置かれています。
黒光りするフローリングの床。写真中央にあるのは仏壇です。
太くて立派な梁。
床の間のある部屋。案内板には「おく」と書かれています。
写真向かって左は薬研(やげん)。
漢方薬の原料となるハーブなどを砕くための道具です。
写真むかって右は七夕馬だと思います。
●七夕馬千葉県では旧暦7月7日にマコモなどで作った七夕馬を作る習慣があったそうです。
子供たちがこの七夕馬を牽いて草を刈りに行き、刈った草を七夕馬に背負わせて家に帰るのだとか。
七夕馬は四つ脚につくられることもありますが、写真のように前脚のみというケースもありました。
参照/
https://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/tanabatauma/tokatsu.htmなぜ子供が七夕馬を牽いて草を狩りにいくのでしょうか。
その意味については不明とのことです。
●草神から瘡神に転じた神社
↑ 大阪府枚方市・片埜神社の境外社に瘡(くさがみ)神社です。
瘡神社は次のような伝説を伝えます。
菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れました。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かいました。
地元の人は手厚く介抱しましたが、馬は死んでしまいました。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになりました。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰されました。瘡とは皮膚病のことですが、天然痘を意味するものでもあったのではないかと思います。
日本書紀には「瘡発でて死る者――身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と記されており、天然痘の病状を記したものではないかと考えられています。
天然痘は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、豆粒状の丘疹が全身にできます。
現在では種痘によって天然痘は撲滅されたとされますが、天然痘は近年まで猛威をふるっていた恐ろしい伝染病でした。
奈良時代には藤原四兄弟が天然痘に感染して死亡していますし
孝明天皇(1831-1867)の死因も天然痘であると記録されています。
七夕は牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる日ですが
牛頭天王(スサノオと習合されている)は疫神とされていました。
そして牽牛と牛頭天王はどちらも名前に「牛」とあるので同一視されていたのではないでしょうか。
つまり、牽牛は疫神であり、瘡をもたらす神であると考えらえていたのではないかと思うのです。
七夕馬をひいて子供たちが草を刈りいくのは、草を刈ることが、瘡(くさ)を刈るに通じると考えられたためではないでしょうか。
そして草が好物の馬は、瘡(くさ)を食べてくれる神として信仰されていたため、草刈りに牽いていかれたのではないかと思います。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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