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京都御苑 百日紅 『天智系天皇の都を作るのは藤原氏の悲願だった?』 

京都市上京区 京都御苑 
撮影 2015年8月16日


京都御苑 百日紅 
艶やかな百日紅の花が咲く夏の京都御苑。

あれっ?

京都御苑 百日紅 平安装束の男女 
どうやら平安時代にタイムスリップしたようです。(ウソぴょーん) 
十二単の女性は八坂神社かるた始めに登場されたかるた姫さん、男性は橿原神宮紀元祭に登場された方です。(合成) 

もしかしてここは平安京? 向うに見えているのは内裏でしょうか?
(現在の京都御所は南北朝時代に光厳天皇が里内裏として用いた土御門東桐院殿があったところです。
実際には平安京の内裏は現在の京都御所から約1.7km西の千本通り沿いにあったので、注意してください!)

●平安京遷都の理由

平安京遷都の理由について、「奈良の仏教勢力から逃れるため」と私は学校で習いました。
最近の歴史の授業では「奈良の怨霊から逃れるため」と教えていると聞いたことがあります。

729年、長屋王は国家を呪詛したとして厳しい取り調べを受け、自殺に追い込まれました。(長屋王の変)
長屋王は当時皇位に近い立場にあり、それを阻むために藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)氏が仕組んだ陰謀であり、
長屋王が国家を呪詛したというのは事実無根と考えられています。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって死んでしまいました。
そして藤原四兄弟の死は長屋王の怨霊の仕業だと考えられました。
その長屋王をはじめとする奈良の怨霊から逃れるために遷都したと言うのですね~。

また、平安京は天智系天皇の都を造ることを目的としていたとする説もあります。

●平城京は天武系天皇の都だった。

672年、天智天皇崩御後、大海人皇子(天智天皇の弟)vs大友皇子(天智天皇の子)が皇位をめぐって争いました。(壬申の乱)
結果、大海人皇子が勝利し、大海人皇子は即位して天武天皇となります。

その後、天武→持統(天武天皇の皇后/天智天皇の娘)→文武(持統天皇の孫/草壁皇子の子)→元明(天智天皇の娘/草壁皇子の正后/文武の母親)→元正(草壁皇子と元明天皇の娘)→聖武(文武天皇の子)→孝謙(聖武天皇の娘)→淳仁(天武天皇の孫/舎人親王の子)→称徳(孝謙と同一人物。一度退位したのち、再び即位しました。)と天武系の天皇が続きます。

赤文字は女性。

※持統天皇は天智天皇の娘ですが、天武天皇の皇后でもあり、天武側の人物でした。

※元明は天智天皇の娘ですが、天武と持統の間に生まれた草壁皇子の正后であり、息子の文武を即位させるため、中継ぎの天皇として即位しました。

●女性天皇は結婚が許されなかった。

持統、元明、元正、孝謙(称徳)と女性の天皇が多いですね。
このうち持統天皇と元明天皇は結婚して子供をもうけています。
いずれも即位したのは結婚して子供をもうけたあとです。
しかし、元正天皇と孝謙(称徳)天皇 は独身で即位しました。
どうも独身で即位した女性は結婚は許されなかったようですね。
どちらも結婚はせず、一生独身で子供を産むということもありませんでした。

●次期天皇を誰にするべきか。

聖武天皇は藤原四兄弟の妹の藤原光明子を皇后とし、二人の間には、孝謙(称徳)のほか、基王という男子も生まれました。
しかし基王は生まれてまもなく728年に亡くなってしまいました。
聖武天皇には県犬養広刀自との間に安積親王もありましたが、744年に17歳で亡くなっています。
こうして聖武天皇のあとをつぐ男子はいなくなってしまったので、娘の孝謙(称徳)が聖武天皇の皇太子となり、即位したわけです。
さらに孝謙(称徳)は結婚が許されなかったようで、子供をもうけなかったため、次期天皇を誰にするのかが問題となっていました。

京都御苑 百日紅  
●藤原百川、天智系の光仁天皇を推す。

称徳天皇は僧の道鏡を次期天皇にしたいと考えるようになります。
道教は物部氏の一族の弓削氏の出自とされ、天皇家の血筋でないのに天皇になろうとしたとして日本三大悪人の一人とされています。(残る二人は平将門、足利尊氏)

ですが、道鏡を天智天皇の皇子・志貴皇子の子であるとする史料もあります。
私は道鏡は志貴皇子の子であり、皇統であるので称徳天皇は次期天皇に道鏡をと考えたのではないかと思っています。
しかし、称徳天皇が急死してしまい、道鏡は失脚します。

詳しくはこちらの記事をお読みください→奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  


称徳天皇崩御後、吉備真備は次期天皇としてとして文室浄三および分室大市を推しました。
文室浄三・分室太市は天武天皇の孫で、臣籍降下していました。
吉備真備は天武系の血筋の人物を皇位につけるべきだと考えたのでしょう。

ところが、藤原百川(宇合の息子)はなんと天智系の白壁王(のちの光仁天皇)を推したのです。
す。
白壁王の父親は天智天皇の皇子の志貴皇子、母親は紀橡姫(きのとちひめ)で藤原氏ではありません。
なぜ百川は天武系でなく天智系で、さらに藤原氏ではない女性を母親に持つ白壁王を推したのでしょうか?

●藤原氏は天智天皇の子孫だった?

白壁王を推した藤原百川は藤原不比等の孫ですが、藤原不比等は天智天皇の落胤だとする史料があるんですね~。

天智天皇の寵臣であった藤原鎌足は天智天皇より鏡王女を賜ったが、女性はそのとき天智天皇の子の不比等を身ごもっていたというのです。

一般に、この説は単なる伝説の類だと考えられていますが、私は不比等は天智天皇の後胤だったと考えています。
だからこそ、天智天皇の孫の百川は天智系の白壁王を推したのではないかと思うのです。

770年、白壁王は即位して光仁天皇となり、781年には光仁天皇の皇子の桓武天皇が即位しました。
そして794年、桓武天皇は平安京に遷都します。
この際、藤原百川の甥の種継が平安京の造営使となっています。

藤原氏は天武系天皇を廃して天智系の天皇をたて、
天智系天皇の都として平安京を造ろうと考えたのではないでしょうか?

京都御苑 百日紅 牛車


↑ 牛車を牽く人々は葵祭に登場された方々です。(合成)




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/08/13 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)