8月6日はなにわ淀川花火大会ですね!
今年は用事があって行けないんですが、過去に撮影した写真をご紹介します。
花火が始まる前に夕立が降って稲妻が走ったり~
夕立のあとに虹がでたり~
花火の下を阪急電車が走ったり~
月が出たり~
●十三という地名の由来なにわ淀川花火大会は阪急十三(じゅうそう)駅近くの淀川の河川敷で行われます。
この十三という地名、変な地名だと思いませんか。
十三駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三の由来についての詳しい説明がありました。
http://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。
②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため
③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国
男氏)
④条里制の十三条(天坊幸彦氏)
⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)
⑥中津の富島という地名からくる。
●近藤重蔵②の中津の南浜に住んでいた重蔵とは近藤重蔵のことかも、と思います。
近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣で、蝦夷地調査、開拓を行った人です。
1808年に江戸城紅葉山文庫の書物奉行となりましたが、あまりに豪胆な性格であったため、1819年に大坂勤番弓矢奉行に左遷されています。
重蔵は大変な女好きで、多くの妾を持ちがあり、下女などにも次々と手をつけていたそうです。
加島の歓楽街で豪遊する重蔵とイメージがぴったりだと思いますがいかがでしょうか。
私は近藤重蔵が大阪のどこに住んでいたのかを調べてみましたが、わかりませんでした。
重蔵という名前の人はたくさんいたと思いますが、無名の重蔵さんが川を舟で渡ったというだけでは伝説には残らないのではないでしょうか。
また遊女屋通いできるほどの重蔵さんとなると、そうはいないと思うのですが。
近藤重蔵は1821年に江戸に戻りましたが、隣家の半之助が重蔵の屋敷をのっとっていました。
屋敷は重蔵に戻されたものの、その後半之助は重蔵に嫌がらせをするようになりました。
1826年、半之助の度重なる嫌がらせにキレた重蔵の息子・富蔵は半之助とその息子を斬るという事件をおこし、八丈島に島流しとなりました。
このとき、父親の重蔵も連座したとして近江国大溝藩に預けられました。
1829年、重蔵は享年59歳で死亡し、死後の1860年に赦免されました。
富蔵は事件から54年後の1880年に赦免されました。
●石川県に重蔵神社があった!石川県に旅行に行ったとき、重蔵神社というのがあったのでびっくり!
そこから、十三とはトミヒコのことであり、石川の重蔵神社は、
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう(十三)→じゅうぞう(重蔵)と転訛したのではないかと思いいたりました。
トミヒコとはナガスネヒコともいい、記紀の神武天皇紀に登場する人物で大阪のあたりに住んでいた人物でした。
また石川は漁師が多く、水難で命を落とす人が多かったと考えられますが、水死体のことを土左衛門といいます。
その語源は享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(
http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。
私は水死体のことを土左衛門というのは、やはりトミヒコからくるのではないかと思います。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう/とさ→どざえもん(水死体)
つまり、トミヒコ(ナガスネヒコ)とは水死体(どざえもん)なのだと思うのですが、
長くなるので、近いうちに石川の重蔵神社の記事を書き、そちらで詳しくご説明したいと思います。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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