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薬師寺 蓮 『白毫のない菩薩』 

奈良市西ノ京町 薬師寺
2016年7月17日 撮影

薬師寺 金堂 蓮


久しぶりに薬師寺のみほとけを拝観しました。
芸術的なものは排して(芸術ってよくわからないし・・・汗)形を鑑賞するのが私流仏像鑑賞法です。

●縵網相と鈴木大地さん

薬師如来の立派な縵網相(まんもうそう/指の間にある水かき)を見ると、水泳の鈴木大地さんを思い出します。
鈴木大地さんは1988年ソウル五輪背泳ぎの金メダリストです♪♪

http://mackworld.exblog.jp/23517983/
↑ こちらのブログに鈴木大地さんの水かきの写真がありました。

鈴木大地さんは生まれつき指の間に水かきがあったわけではなく、水泳の練習を重ねるうちに水かきが出来たそうです。
人間の体というのは、環境に適したように変化していくものなんでしょうか?

昔、海士などの仕事をしている人の中にも鈴木大地さんのような水かきのある人がいたのかもしれませんね。
そしてそういう人をモデルにしてみほとけに縵網相が表現されるようになったのかも?

●薬師寺の日光菩薩・月光菩薩には白毫がなかった。

薬師如来の立派な縵網相を見たのち、視線を薬師如来の顔に移しました。
あれっ?白毫がない?

薬師如来の両隣の日光菩薩・月光菩薩にも白毫はありませんでした。

白毫とはみほとけの眉間のやや上部に生えている白い毛のことで、全長4.5mの毛が、右巻きに渦巻くように丸まっています。

東大寺 大仏殿 大仏

上は東大寺大仏殿の廬舎那仏ですが眉間に立派な白毫がありますね。

ウィキペディアには次のように記されています。

仏教美術では、白毫は如来と菩薩に付ける。明王、天部、童子などには付けない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB#.E4.BB.8F.E6.95.99.E7.BE.8E.E8.A1.93.E3.81.A7.E3.81.AE.E8.A1.A8.E7.8F.BE より引用

気になって帰宅後、調べてみました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yakushiji-1999-2.jpg
上は薬師寺の薬師如来です。
拡大してみると、眉間に白毫があるように見えます。
照明の具合で白毫がないように見えていたのかもしれません。
ちなみに入江泰吉さんの写真集「奈良大和路/日本カメラ社」に掲載されている薬師寺の薬師如来の写真も白毫がないように見えます。

ですが、日光菩薩と月光菩薩にはやはり白毫がないようです。
http://news.mynavi.jp/articles/2008/03/25/yakushiji/

上記リンク先の日光菩薩・月光菩薩の写真をクリックして拡大画像を見ると、白毫らしきものは見当たりません。

正眼寺の日光菩薩・月光菩薩には白毫はあるようです。
http://www2.town.komono.mie.jp/menu3860.html

もしかして、薬師寺の日光菩薩・月光菩薩のように白毫がないのは珍しいのかもしれません。

(ほかにも白毫のない如来・菩薩を御存じでしたら教えてくださいね!)

薬師寺 鐘楼 蓮


薬師寺は百毫寺にコンプレックスがある?

薬師寺金堂の東には東院堂があり、ブロンズの聖観音を安置しています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sho_Kannon_Yakushiji.JPG

こちらの聖観音には白毫があります。

それで「あっ」と思い出したんですが、薬師寺のほぼ真東7kmくらい(かな?)のところにあるお寺の名前が百毫寺というのです。

薬師寺の花会式では金堂で東の方角に向かって松明を投げます。
薬師寺は東の方向に対して何かコンプレックスがあるみたいな?

薬師寺 花会式 松明 
百毫寺 花会式 松明

●志貴皇子暗殺説

薬師寺はもともとは奈良県橿原市の藤原京にあったのですが、710年の平城京遷都に伴い、718年に現在地に移転したとされます。
御本尊の薬師三尊像の制作年代は不明で、藤原京時代とする説、平城京移転後とする説があります。

薬師寺が平城京に移転する3年前の715年、志貴皇子邸宅あとに百毫寺は創建されたと伝わっています。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。

笠金村という人が志貴皇子の挽歌を詠んでいます。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われるというのです。
(参照/百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』

百毫寺 萩 
百毫寺 萩

●志貴皇子には正当な皇位継承権があった?

奈良豆比古神社には、次のような伝説が伝わっています。

天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病を患い、奈良坂で療養していました。
春日
王の子の浄人王と安貴王は熱心に父・春日王の看病をしました。
兄の浄人王が春日大社で神楽舞って父の病気平癒を祈ったところ春日王の病は治りました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。

しかし地元に伝わる伝承ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく春日王の父親の志貴皇子であるとしています。
そして、志貴皇子は天皇に近い方だったとも伝えているのです。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

715年は元正天皇が即位した年です。
奈良豆比古神社が伝えるように志貴皇子は天皇に近い人物であったのに、元正天皇を皇位につけるために暗殺されたのかもしれません。

古には政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊になると考えられていました。
志貴皇子は死後怨霊になったと考えられたことでしょう。

そして、薬師寺は天武天皇の勅願によって創建された、天皇家の寺です。
薬師寺が藤原京より平安京に移転してきた718年当時の天皇は元正天皇でした。
志貴皇子の怨霊を最も恐れたのは元正天皇であったはずです。

そこで元正天皇は志貴皇子ゆかりの寺・百毫寺を憚り、白毫のない日光菩薩・月光菩薩を作らせたのだったりして?

薬師寺 ライトアップ 

塔百景93
↑ 画質が悪くてすいません。雨の日の薬師寺ライトアップです。随分前にフィルムで撮影しました。
現在、薬師寺東塔は解体修理中です。
解体修理が終わったらまた雨の日にライトアップを撮りに行きたいです。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/07/20 09:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)