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梅宮大社 花菖蒲 『橘氏の没落の原因を作ったのは橘嘉智子だった?』 

京都市右京区 梅宮大社
撮影2014年6月8日


梅宮大社 花菖蒲2 
●梅宮大社の神々

梅宮大社では、次の神々をお祀りしています。

本殿・・・・酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神
相殿・・・・嵯峨天皇・橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)・仁明天皇(嵯峨天皇と橘嘉智子の子)・橘清友(橘嘉智子の父)
若宮社・・・橘諸兄(たちばなのもろえ)
護王社・・・橘氏公(たちばなのうじきみ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)

今回は梅宮大社で祀られている橘氏の人々の中の、嵯峨天皇・橘嘉智子・仁明天皇・橘逸勢についてお話したいと思います。

●橘氏より立后したただひとりの女性

橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となりました。橘氏からの立后は後にも先にも橘嘉智子ただひとりだけです。
橘嘉智子の立后は姻戚である藤原冬嗣の後押しを受けたものでした。

橘嘉智子は正良親王・正子内親王をもうけました。
正良親王と正子内親王は同年の生まれで双子ではないかともいわれていますが、人の妊娠期間は十月十日といわれているので
同年の生まれで双子でない兄弟姉妹は存在します。
同年の生まれだから双子であるとは限りません。
参照/http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1387502.html

正良親王は即位して54代仁明天皇となり、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となりました。

橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇との間に恒貞親王をもうけました。
833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位し、恒貞親王が仁明天皇の皇太子となりました。

●承和の変

このころ、藤原良房という人物が朝廷内で権力を握っていました。
良房は仁明天皇と妹・順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいました。
その空気を察した伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画を練りました。
しかしこの計画は橘嘉智子にばれてしまいます。
そして橘嘉智子はこれを藤原良房に話したのです。
その結果橘逸勢は伊豆への流刑となり、その護送中に病没しました。
恒貞親王もこの計画に連座したとして廃太子となり、かわって道康親王が皇太子となりました。
恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだそうです。(承和の変) 

●橘氏没落の原因を作った橘嘉智子

橘嘉智子はj自分の孫・道康親王を皇位につけたいと考えて良房に相談したのでしょうが
正子内親王が産んだ恒貞親王だって自分の孫です。

結果的に嘉智子の行為は藤原氏を繁栄させ、橘氏の没落を招いてしまったのではないでしょうか。
娘の正子内親王には恨まれるし、従兄弟の橘逸勢は流刑になってしまうし
橘嘉智子、何やってるんだ、と思ってしまいます。

そしてこれ以降、橘氏より政治の中枢を担う人物は登場しなくなります。
梅宮大社はそんな橘一族の霊を慰めるための神社という一面をもっているのではないでしょうか。
 
梅宮大社 花菖蒲 




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/06/27 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)