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頼光寺 紫陽花 『頼光塚が蜘蛛塚とはこれいかに?』 

兵庫県川西市 頼光寺
2014年6月29日 撮影

頼光寺

①頼光像と地蔵願王菩薩は習合されている?

頼光寺は長保年間(999年~1003年)に創建されたお寺で、本堂には源頼光神像が祀られています。

お寺なのに神像が祀られていることを不思議に思う方がおられる方もいるかもしれませんが、江戸時代までの日本では神仏は習合されて信仰されていました。
頼光寺に頼光像が祀られているのは、そのころの名残でしょう。
神仏が別々に祀られるようになったのは明治の神仏分離令以降です。

頼光寺のご本尊は地蔵願王菩薩です。
地蔵願王菩薩というのは初めて聞きましたが、調べてみると結構各地にあるようです。

地蔵願王菩薩
説話・・・昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいました。一人は自らが仏となることで人々を救おうと考え、仏になったのです。しかしもう一人の王は仏になる力を持ちながらあえて仏とならずに、自ら地獄に落ちて、すべての苦しみ、迷い続ける者たちを救おうとしたといいます。それが地蔵菩薩です。さらに釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する衆生を救う菩薩であるともされています。


http://kougenji.la.coocan.jp/s/boku/000001.html より引用

上のサイトの説明を読むと、地蔵願王菩薩と地蔵菩薩は同じもののようですね。
ですが、わざわざ願王とあるところに、「もともとは王であったのに衆上のためにあえて地獄におちた人」という意味が強調されているように思えます。

ちなみに願とは「みほとけが衆上を救うために立てる願い」のことで、願王とは「衆上を救うために願いをたてた王」という意味ではないかと思います。

下記サイトの説明と私の解釈は若干異なりますが。

「願王」とは仏・菩薩の願の根本をなす願、という意で、密教で願王菩薩といえば金剛寿命を授ける普賢菩薩(延命菩薩)を指す。普賢、地蔵の縁日がともに24日であることなどから、何時のころからか庶民の信仰厚かった地蔵菩薩に変容したものと思われる。

http://www.yamagata-community.jp/~iizuka/ganou.html より引用

それはさておき、もしかして、この地蔵願王菩薩と源頼光は習合されていたのかも?

頼光寺-庭 紫陽花

②大江山の夷賊討伐と土蜘蛛退治

源頼光は平安時代中期の武将で摂津国多田(兵庫県川西市多田)の土地を所有していました。
大変なお金持ちであったようで、たびたび藤原道長に豪華な贈り物をしています。
多田には銀山があります。
頼光はその銀山の採掘によって財力を得ていたのかもしれませんね。

1018年、頼光は勅命を受けて、頼光四天王(渡辺綱 ・坂田金時 ・卜部季武 ・碓井貞光) らともに大江山の夷賊討伐を行っています。

大江山は京都府丹後半島付け根あたりにある山です。
平安京からそんなにはなれていませんが、都からこんなに近い場所にもまつろわぬ民(夷賊)がいたのですね。
東北のほうにもしょっちゅう蝦夷平定の軍を出していますし、案外、平安時代の日本は狭かったのかもしれません。

のちに、源頼光が頼光四天王を従えて丹波国大江山で鬼の酒呑童子を討伐したとか、土蜘蛛退治をしたという伝説が生じます。
土蜘蛛とは古事記、日本書紀、風土記などに登場する「まつろわぬ民」のことです。
これらの伝説は1018年の大江山夷賊討伐をベースに創作されたものなのかも?


嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 

京都の伝統芸能である大念仏狂言や六斎念仏などで「頼光と土蜘蛛」は大人気の演目となっています。
上の写真は嵐山紅葉祭において演じられた嵯峨狂言による「頼光と土蜘蛛」です。
向かって右の青い着物を着ているのが源頼光、向かって左の蜘蛛の巣柄の着物を着ているのが土蜘蛛です。
(もうちょっといい写真があったらよかったんですが~。)

③2か所にあった土蜘蛛の塚

 ←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚の図です。
清和院は大変広そうなお寺に描かれていますが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけです。
また絵の向かって左下に蜘蛛塚が描かれています。
この蜘蛛塚は源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だと言い伝わっていますが、現在はありません。
明治31年、蜘蛛塚の発掘調査が行われていますが、このときに墳丘は取り壊されたのではないかと思います。

清和院 

清和院

この発掘調査の際、燈篭の火袋が発掘され、ある人がそれを貰い受けて庭に置いていたところ、よくないことが次々に起こり
土蜘蛛の祟りだという噂がたちました。
そのため、その火袋は北野天満宮の西にある東向観音寺に奉納されました。
現在、火袋は『土蜘蛛の塚』と呼ばれ、東向観音寺の裏庭に置かれています。


東向観音寺 土蜘蛛の塚
蜘蛛塚は東向観音寺のほか、上品蓮台寺にもあると聞いたので、上品蓮台寺に行ってみました。
ところが、それらしいものがないのです。
そこへかわいらしい尼僧の方が歩いてこられたので、「蜘蛛塚はどこですか」と聞いてみました。
その答えを聞いてびっくりしました。

尼僧さんは「あそこにある、源頼光の塚が蜘蛛塚ですよ」とおっしゃったのです。

上品蓮台寺 源頼光塚(蜘蛛塚)

えっ?頼光の塚が土蜘蛛の塚?

それって頼光が土蜘蛛だということ?

土蜘蛛は穴の中に住むと風土記などに記されていますが、それは原始的な民族という意味ではなく、
坑道を掘って生活しているという意味ではないかと考えたりもします。
そして頼光の本拠地である多田には銀山があります。

だとすると、頼光は穴の中に住む土蜘蛛ともいえそうですが。
そして、頼光寺の地蔵願王菩薩は地獄に落ちた王なので、坑道のイメージと重なります。

元々は船岡山の南西にあって「頼光塚」と呼ばれていたのを、昭和のはじめごろ、上品蓮台寺に移したというので
単純に、頼光塚と蜘蛛塚が混同されたということなのかもしれませんが、なんだかとても気になってしまいます。

頼光寺 庭 額紫陽花 


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[2018/07/06 15:23] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)