大阪府藤井寺市・・・葛井寺
2007年5月初旬 撮影
①1041本の手を持つ観音さま毎月18日に天平時代の乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像)が開扉されます。
(写真→
☆)
国宝ですよ~♪
千手観音の腕は四十二本のものが多いです。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うと考えられ、「25×40=1,000」というわけです。
なんか、ずるい。(笑)
ですが実際に1000本の腕を持つ像として作られたものもあります。
奈良・唐招提寺、京都寿宝寺の千手観音などがそうです。
ここ葛井寺の千手観音は合掌する本手のほか、脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で1041本の腕を持っています。
顔立ちもとても美しくて私のもっとも好きな仏像のひとつです。
②葛井氏と阿保親王・在原業平の関係寺伝では、葛井寺は聖武天皇の勅願により725年に行基が創建し、平安時代に平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとしています。
平城天皇は同母弟の嵯峨天皇と対立して810年「薬子の乱」をおこした方ですね。
平城天皇は嵯峨天皇に敗れて出家され、平城天皇の皇子・阿保親王は「薬子の乱」に連座したとして大宰府に左遷されました。
824年、ようやく許されて帰京したあと、桓武天皇の皇女・伊都内親王を妃としました。
826年、阿保親王は自らの子供たちの臣籍降下を願い出て認められ、在原姓を賜りました。
そのひとりが在原業平です。
しかし、百済辰孫王の後継氏族である白猪氏(のち葛井に改名)の氏寺として創建されたとも考えられています。
阿保親王の母親は葛井道依の娘の葛井藤子でした。
そのため、阿保親王が再興したなどといわれているのかもしれませんね。
また、在原業平が奥の院を造営したともいわれます。
③こんなにある!725年に行基が創建した寺。
葛井寺の創建が725年と聞いて、私は「また725年やー!」と思いましたね。
というのは、725年に行基が創建した寺と言うのが結構たくさんあるんです。
私が参拝したお寺では、奈良県御所市の船宿寺や大阪府枚方市の久修園院なども行基が725年に創建したお寺でした。
船宿寺
久修園院かつて久修園院の近くにあった山崎橋も行基が725年にかけたといわれています。
山崎橋がなくなったあと、渡しがあったようですが、現在は山崎橋も渡しもありません。
あと、静岡県袋井市の尊永寺も725年行基の創建としています。
行基の創建とはしていませんが、宇佐八幡宮(大分県)や新田神社(鹿児島県)も725年の創建です。
もっと調べれば他にも725年創建の寺社があるかもしれません。
もし御存知でしたら教えていただけると嬉しいです!
③725年に何があった?いくら行基が精力的な人物であったとしても、同じ年に奈良県御所市・大阪府藤井寺市・大阪府枚方市・静岡県袋井市に寺を建て、山崎橋までかけるのは無理じゃないでしょうか。
場所も離れてるし~。
少なくともこれらの寺や橋が725年につくられたというのは事実ではなく、
何かの縁起担ぎで創建年を725年としたのではないかと思います。
725年には国家にとって何か重大なことがあったのではないでしょうか?
④蝦夷の反乱724年に蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されています。
4月、藤原宇合が持節大将軍に任命され反乱の鎮圧に向かい、11月に戻っています。
725年、藤原宇合は功績を認められて従三位・勲二等を受けたということは、蝦夷の乱は一応鎮圧できたということでしょうか。
でもまあ、その後も蝦夷はたびたび反乱をおこしていますけどね。
724年には朝廷は蝦夷鎮圧の軍事的拠点として多賀城(宮城県)を創建しています。
725年に行基が創建したとされる寺は、蝦夷の怨霊封じのために作られたのかも?