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等持院 皐月 六請(ろくしょう)神社 『六請神社は六所御霊を祀る神社?』 

京都市北区 等持院 六請神社
撮影 2016年6月3日

等持院 芙蓉池と庭園 皐月 

 
等持院 皐月

●足利将軍家の菩提寺

等持院は室町幕府初代将軍の足利尊氏が1342年に創建したお寺です。
霊宝殿には歴代足利将軍の像(5代義量、14代義栄を除きます。)と徳川家康の像が安置されています。

尊氏さんはちょっと垂れ目で愛嬌のあるお顔立ちをしておられました。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki11.html
↑ こちらのサイトに歴代足利将軍像の写真があります。
また、5代義量、14代義栄の像がない理由についての推論も記されていますが、これについては改めてじっくり考えてみようと思います。(こればっか~!)

等持院には足利尊氏の墓があるということなんですが、見落としてしまった~!(こういうこともしょっちゅう書いてるな・・・)



等持院 庭園 皐月 
等持院 皐月

●等持院の鎮守・六請神社

等持院の西隣には六請(ろくしょう)神社があります。
六所明神、衣笠岳御霊社などとも呼ばれているそうです。

六請神社は等持院の鎮守とされています。
さらに六請神社の西隣には真如寺があり、六請神社は真如寺の鎮守ともされています。

真如寺は無学祖元という僧侶の遺爪髪を祀るために創建されたお寺で、1342年に夢窓礎石が足利尊氏の執権・高師直・尊氏の弟の足利直義の援助をえて寺院として整備されたと伝わります。

南門が閉まっていたので、拝観できないお寺だと思いましたが、ウィキペディアを見ると境内の写真があります。
他の場所に入り口があるのかも?
今度行ったときに入り口を探してみます。

六請神社  
六請神社 (女性は葵祭に登場された方です。/合成)

さて、六請神社の創建は等持院や真如寺よりも古く飛鳥時代にまで遡るといわれています。
もともとは衣笠山に葬られた御霊を祀っていたとか、衣笠の地を開拓した者の霊を祀っていたなどともいわれています。
この地には大伴氏の支族・伴林氏が住んでいたそうなので、衣笠の地を開拓した者とは、伴林氏のことなんでしょうか。

●六請神社は六所神社?

さきほど六請神社は六所明神と呼ばれるという話をしましたが、六所は「むしょ」であり、墓所(むしょ)が訛ったものだともいわれています。
かつて衣笠山は風葬の地で、いたるところに死体が放置されていたというので、なるほど墓所から六所明神になったというのはありそうに思えます。

しかし、六所御霊を祀っていたところから、六所明神と呼ばれ、また六所神社から六請神社になったとも考えられるのではないでしょうか。

●六所御霊って何?

神泉苑 躑躅 
神泉苑 躑躅

863年、神泉苑で御霊会が行われています。御霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人のことで、怨霊と同義と考えていいと思います。

このような御霊は祟って天災や疫病をひきおこすと考えられ、祟らないように慰霊する儀式が行われました。
これが御霊会です。

863年の御霊会では、次の六柱の御霊が慰霊されました。

①早良親王(藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、流刑となって淡路に向かう船上で憤死。無実を訴えてハンガーストライキを行った。)

②伊予親王(謀反を企てたとして母親の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。死後無実であることが判明/伊予親王の変)

③藤原吉子(伊予親王の母親。伊予親王とともに川原寺に幽閉され服毒自殺。/伊予親王の変)

④橘逸勢(謀反を企てたとして伴健岑とともに捕えられ拷問をうけた。流罪となって伊豆へ向かう途中死亡/承和の変)

⑤分室宮田麻呂(唐よりの物産を勝手に没収しようとしたとして伊豆に流罪となった。のち、無罪とされた。)

⑥藤原仲成(平城上皇を担ぎ上げて謀反をおこしたことにより斬殺された/薬子の変)

または藤原広嗣(九州で反乱をおこし斬殺された/藤原広嗣の乱)

●なぜ藤原薬子や伴健岑は六所御霊に入っていないのか

ここで不思議に思うことがあります。
「薬子の変」は藤原仲成・藤原薬子兄妹が平城上皇を担ぎ上げておこしたクーデターです。
これに失敗したことで薬子は服毒自殺しています。
藤原仲成は六所御霊に入っているのに、なぜ共謀してクーデターをおこした薬子は六所御霊に入っていないのでしょうか。

また「承和の変」は橘逸勢と伴建岑がともに計画したもので、どちらも流罪になっています。
それなのに橘速成のみが六所御霊の一柱とされ、伴建岑は六所御霊に入っていません。

●誰を御霊にするかではなく、御霊を六柱にすることに意味がある?

これは「6」という数字に意味があり、そのため御霊を6柱に絞ったためではないかと私は考えています。

梅原猛さんは8という数字は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角墳や八角堂は死者の復活を願って建てられたのではないかというのですね。
そういえば、八咫鏡は天照大神を復活させるのに用いた鏡です。

易の本によると、1は神・起源、2は対比・分裂、3は懐妊、4は実現・世界、5は智恵・想像力、6は星・健在意識と潜在意識の調和、7は神的受胎・休息・沈黙、8は無限、9は完成・達成、10は神・男性=1と女性=0の相互作用と書かれていました。
ここに「8は無限」とありますが、無限なのは復活を繰り返すことだとも考えられます。

すると6と言う数字は死を意味する数字だったのではないかと思えるのです。
生きとし生けるものが輪廻するとされる6つの世界のことを六道といいますし
墓場の入り口には六地蔵がおかれています。
六歌仙という言葉もありますが、高田祟史さんは「六歌仙は怨霊である」としておられ
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことなので、やはり死のイメージがあります。

ただね~、7も死を意味する数字のように思えるんですよね~。
初七日・二七日(ふたなのか)のように人が亡くなった際の法要は7日ごとに行いますので。

6と7の数字の意味には微妙な違いがあると思うので、これについてはあらためてじっくりと考えてみたいと思います。

六所御霊から八所御霊への転換?

下御霊神社 
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)

上御霊神社や下御霊神社では八所御霊といって8柱の御霊を祀っていますが
上御霊神社・下御霊神社の創祀は863年に神泉苑で行われた御霊会だとされています。
つまり、六所御霊に2柱の御霊が追加されて八所御霊になったたわけです。(祭神については諸説あります)

八所御霊としたのは、八が復活を意味する数字なので、怨霊が神として復活するという意味がこめられているのではないかと思います。

上御霊神社 六斎念仏 

上御霊神社 六斎念仏


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/06/10 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)