栃木県足利市 足利学校
撮影 2016年5月中旬
今回、足利学校を旅していただくのは、堺祭・時代行列に登場されたハイカラさんたちです。(合成)
髪型や袴がとても可愛らしいですね♡
葉の赤い楓は野村楓と説明板に書いてありました。

●足利学校設立者についての諸説足利学校は前回ご紹介した鑁阿寺からほど近いところにあります。
設立者についてはいろんな説があります。
①奈良時代、下野国の国学(律令制で官人育成を目的として各国に設置された地方教育機関)として設立された。(川上廣樹)
②839年、小野篁によって設立された。(『鎌倉大草紙』)
③12世紀末、足利義兼によって設立された。(『高野春秋編年輯録』に、「足利義兼が足利に寺と学校を持っていた」と記述がある。)
④1432年、上杉憲実によって設立された。(『大日本史』しかし、1432年以前にも足利に学校があったと記述されている。)
●なぜ鎌倉大草紙は設立者を小野篁としているの?今回は諸説ある中の「②839年、小野篁によって設立された。」について考えてみたいと思います。
足利学校には小野篁像が安置されていました。
関西の人にとって小野篁さんはとても親近感があると思います。
京都の六波羅蜜寺や、奈良の矢田寺などを創建したという伝説が伝わっていますね。
身長は188cmとすごく背の高い人だったとか。
ウィキペディアには次のように記されています。
「ただし、篁が下野国に関連する役職に就いたことはなく、また、設立年とされる年には流刑になっていることから、この説には信憑性がないという主張が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E8.AB.96.E4.BA.89 より引用
このウィキペディアの記述は妥当だと思います。
おそらく足利学校は小野篁が設立したものではないでしょう。
それではなぜ『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』は小野篁を設立者としているのでしょうか。
(鎌倉大草紙とは、1380年から1479年の関東地方の歴史を記したもので、戦国時代初期に記されたものと考えられています。)
●閻魔大王と小野篁の深ーい関係
利性院(閻魔堂)足利学校の近くに、閻魔大王を祀るお堂がありました。
利性院(閻魔堂)といって、巴町にある法玄寺の末寺なのだとか。
学業成就にご利益があると信仰されているそうです。
学業成就にご利益があるというのが、なんとなく足利学校と関係がありそうに思えます。
この閻魔大王と小野篁には深ーい関係があります。
小野篁は日中は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていたという伝説があるんですね。
●小野篁にはなぜ閻魔庁に仕えたという伝説が残されているの?矢田寺 紫陽花 『閻魔庁に仕えた小野篁』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、
篁は遣唐副使に任ぜられ、遣唐大使・藤原常嗣の船と交換したのですが、交換した船が壊れていたのです。
篁は壊れた船で唐へは行けないと考え、仮病を使って乗船を拒否しました。
そのため篁は838年に隠岐へ流罪となったのですが、1年あまりで許されて帰京しています。
百人一首にある
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」という歌は
流罪となって隠岐へ向かう時に詠んだ歌です。
平安時代、人々は平安京の中はこの世、平安京の外はあの世だと考えていたと聞いたことがあります。
当時の人々は隠岐という都から遠く離れた隠岐をあの世と考え、そのため篁はあの世の閻魔庁に仕えたなどという伝説が生じたのではないかと思います。
足利学校に展示されていた世界地図。日本の形がーーー!
●下野国は流刑地だった。岐阜は古には下野国と呼ばれていました。
下野国と聞いて私がまず思い浮かべたのが、道鏡です。
道教は称徳天皇(女性)の寵愛を受けて(私は男女の関係ではなかったと考えていますが)出世しましたが、
称徳女帝が崩御したため失脚し、下野国薬師寺に左遷されたのです。
つまり下野国は流刑地であり、隠岐と同じくあの世であると考えられたのではないでしょうか。
京都の法輪寺では4月13日に「十三まいり」が行われています。
十三になった子供が法輪寺の虚空蔵菩薩さまに詣で、知恵を授けてもらうという行事で別名を「知恵もらい」ともいいます。
お参りをすませて渡月橋を渡るとき、後ろを振り返って法輪寺のほうを見てはいけない。
後ろを振り返るとせっかく授かった知恵をなくしてしまうと言われています。
法輪寺 イザナギとイザナミの神話に似ていますね。
イザナギは死んだイザナミを迎えにあの世に行ったのですが、イザナミは「黄泉の大王に相談するので、その間決して振り返って私の姿を見ないでください」と言いました。
けれども、イザナギは辛抱の足りない男で、我慢できなくなってイザナミの姿を見てしまいます。
イザナミの体は腐り、蛆がたかっていました。
それを見たイザナギは恐ろしくなって黄泉の国から逃げ帰ってしまうのです。(なんちゅー男や!)
つまり法輪寺は黄泉の国であり、虚空蔵菩薩は黄泉の大王。
十三まいりとは、黄泉の国を訪れて黄泉の大王より知恵を授けてもらうという意味あいがあるのではないでしょうか。
足利学校にあった「宥座の器(ゆうぎのき)」
孔子が説いた「中庸」を教えるためのものだとか。
私の心はいつもこんな風に満タンになりすぎて、しょっちゅうひっくり返っています・・・・・閻魔大王は地獄にあって死者を裁く裁判官なので、この黄泉の大王と同一視されたのだと思います。
さらに閻魔庁に仕えたという伝説が残る小野篁は、閻魔大王や黄泉の大王と同一視され
黄泉の大王は知恵を授けてくれる神でもあるところから、足利学校の創始者は小野篁であるなどという伝説が生じたのではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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