三室戸寺 躑躅 石楠花 『地獄に堕ちたビーナス』 

京都府宇治市  三室戸寺
撮影 2013年5月12日

三室戸寺 本堂 躑躅 

●星の神を祀る寺


三室戸寺は山号を明星山といいます。
明星とは金星のことですね。
金星は太陽・月の次に明るく見える天体なので、明星というのだそうです。
金星は地球よりも太陽に近い内惑星であり、金星が天空にあるのは昼間です。
昼間は太陽の光が明るすぎて星を観測することができません。
太陽の光量が落ちる明け方と夕方にのみ金星を観測することができます。

●まつろわぬ民の神・天津甕星

以前にもお話ししましたが、日本の神話には星の神はたった一柱しか登場しません。
夜空には数えきれないほどの星々がきらめいているのに、たった一柱の神しか登場しないなんて不自然ですね?
日本にはかつて星の神を信仰する民がいたが、星の神は抹殺されたとする説もあります。

たった一柱のみ神話に登場する星の神は天津甕星(アマツミカボシ)、またの名を香香背男(カカセオ)といいます。
日本書紀によれば『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されています。
どうも日本では星の神は「まつろわぬ民」の神という扱いになっているようですね。
すると、明星山という山号を持つ三室戸寺って「まつろわぬ民」を祀る寺なんでしょうか?

三室戸寺 躑躅

●三室戸寺創建説話

三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した寺で、次のような創建説話が伝えられています。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じた。
犬養は光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着いた。
その滝壺の中に身の丈二丈ばかりの千手観音像があった。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じた。
その観音像を安置するために寺が創建され、当初は御室戸寺といった。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。


おそらく、滝壷の中の観音が光の正体で、それは空から堕ちた明星(北極星=金星)だったという話なのでしょう。

三室戸寺 本堂 石楠花


●地獄に落とされたビーナス


もちろんこれはたとえ話で、実際に明星(金星)が落ちたというわけではありません。

三室戸寺が創建された770年は光仁天皇が即位した年です。
三室戸寺の由緒では光仁天皇は即位する前の白壁王という名で登場しています。
ということは白壁王は金色の光の正体を突き止めたのちに即位したのでしょう。

白壁王は天智天皇の孫ですが、皇位継承には遠い場所にいました。
壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承をめぐって争った結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となりました。
それ以降、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳(孝謙と同一人物)と天武系の天皇が立っています。
そこへいきなり天智系の光仁天皇(白壁王)が即位したというのですから、光仁天皇はとんでもないウルトラⅭを決めたということになります。
770年に白壁王が見た金色の光は、白壁王にとって瑞兆だったといえるでしょう。

光仁天皇(白壁王)が即位した770年、地獄へと堕とされた女性がいます。
称徳天皇(孝謙天皇・阿倍内親王)です。
この称徳天皇こそ、ビーナス=明星というにふさわしいのではないかと私は思います。

称徳天皇は718年に聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身で初めて人臣から皇后となった女性)の間に産まれた皇女でした。
同母弟に基王があり、基王は生後まもなく立太子しましたが、1歳になる前に夭逝してしまいました。
聖武天皇の皇子には安積親王もいましたが、安積親王の母親は県犬養広刀自で藤原氏ではありませんでした。
そのため、光明皇后を母親に持つ阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇)が立太子したと考えられています。
史上初の女性皇太子でした。

749年、聖武天皇の譲位を受けて阿倍内親王が即位して孝謙天皇(女帝)となりました。
その後758年に淳仁天皇に譲位します。

その後、孝謙上皇は道鏡を重用するようになります。
藤原仲麻呂が淳仁天皇を介して「道鏡との関係を絶つように」と進言させたところ、孝謙上皇の怒りが爆発。
孝謙上皇は出家して尼となり、道鏡と男女の関係ではないことをアピール。
また、『今の天皇は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う!』と宣言し、天皇から政権を取り上げました。 

764年、藤原仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚して処刑されました。(藤原仲麻呂の乱)

孝謙上皇は女性ですがなかなかの切れ者ですね。ほれぼれしてしまいます。

766年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。

769年、宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』と託宣があり、称徳天皇は事の真偽を確かめるために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しました。
清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継が締めむ』と奏上し、称徳に怒りを買って大隅国へ配流されました(宇佐八幡宮神託事件)。

宇佐八幡神託事件の翌年の770年、称徳天皇は天然痘を患って病床につき、数日後に亡くなりました。

三室戸寺 石灯篭 石楠花2


このとき、称徳天皇は病床から統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔を出しています。
そして宮中を吉備真備の軍勢がを取り囲み、出入りが禁じられていました。
看病のため出入りが許されていたのは真備の娘の由利だけで、病気回復を願う祈祷も行われていません。

通常は行われるはずの病気回復を願う祈祷が行われていないので、称徳天皇は暗殺されたのではないかという説もあります。
また、統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔も偽造されたものではないかとする説もあります。

孝謙天皇崩御後、藤原永手や藤原百川の推挙を受けて白壁王が即位して光仁天皇となりました。
称徳天皇の死によって道鏡は失脚し、下野国へ左遷となり、772年死亡し庶民として葬られました。

白壁王が目にした金色に輝く光、それは称徳天皇が地獄へ墜ちていくときに放った光ではないかと思うのです。

いやらしい話ですが、称徳天皇の崩御がなかったら白壁王が皇位につくことはなかったのです。
そこで称徳天皇の霊を観音として祀ったのが三室戸寺ではないかと思うわけです。

三室戸寺 石灯篭 石楠花


●称徳天皇は蝦夷だった?

星は「まつろわぬ民の神だと書きましたが、古史古伝の『東日流外三郡誌』では称徳天皇は蝦夷の女王であったと記しています。古史古伝はその信憑性に疑いがもたれていますが、私は称徳天皇は蝦夷系の人物であったと思います。
というのは、称徳天皇の父親は阿部仲麻呂だと考えているからです。
(詳しくはこちらの記事をお読みください → 海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』 

阿部氏も奥州安倍氏(蝦夷)もは孝元天皇の皇子・大彦命の後裔とする説があります。

三室戸寺 三重塔 石楠花 

塔百景85




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/05/13 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)