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矢田寺 紫陽花 さつき 『春日明神の正体とは』 

 
奈良県大和郡山市 矢田寺
かなり以前の撮影


矢田寺 紫陽花-本堂

①矢田型地蔵

お地蔵様は右手に杖、左手に如意宝珠を持ったお姿をしておられるのが一般的です。
矢田寺のお地蔵様のほとんどは右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれています。
右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、阿弥陀仏の徳を併せ持ったお地蔵様だということなのでしょう。
ちょっとわかりにくいですが、下の写真の向かって左のお地蔵様もこの印を結んでおられます。

矢田寺 紫陽花 石仏2 

②天武天皇に勝利をもたらした矢田山の神

矢田寺の創建は飛鳥時代とされ、次のような創建説話が伝えられています。

天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争いました。(壬申の乱)
この戦いで勝利したのは大海人皇子で、勝機がないと悟った大友皇子は自害して果てました。
大海人皇子は673年に即位し、679年に戦いに勝利したのは 矢田山の神のご加護のおかげであるとして矢田寺を創建しました。

矢田寺 紫陽花 石仏3

③春日明神が刻んだ地蔵菩薩

また矢田寺にはこんな伝説もあります。

嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいました。
小野篁は昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていました。
ある時、閻魔大王が篁に言いました。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。

篁は矢田寺の満慶上人こそ適任者だと考え、満慶上人を閻魔庁に連れていきました。
満慶上人は閻魔庁で閻魔大王に会い、閻魔大王に菩薩戒を授けました。
閻魔大王はそのお礼に満慶上人を地獄に案内しました。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会いました。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって
亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられました。

矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませましたが、思うように彫ることができませんでした。
ある日4人の翁があらわれ、3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げました。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿でした。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去りました。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられています。

また満慶上人は地獄から戻るとき、閻魔大王より米の入った手箱をもらいましたが、
米はどれだけ使っても減らず、常に米が箱いっぱいに満ちていました。
そのため人々は満慶を満米上人と呼ぶようになりました。 (矢田寺地蔵縁起 )

矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は平安時代に春日明神が刻んだものだというのですね。

矢田寺 皐月2 

④天児屋根命=天智天皇?

春日明神とは藤原氏の氏神である春日大社の四柱の神様、藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神の四柱の神のことです。

私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味です。。

そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいます。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことでしょう。

とすれば、アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
そうであるなら、天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

矢田寺の地蔵菩薩は、春日明神がつくったと伝説に伝えられますが、それは天智天皇の霊が地蔵菩薩をつくったという意味なのではないでしょうか。

そして天武天皇が戦勝祈願した矢田山の神とは天智天皇のことではないでしょうか。

矢田寺 皐月 

⑤荒ぶる怨霊は慰霊すれば和魂に転じる?

かつて政治的に不幸な死を迎えた人は怨霊になると考えられ、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。
天智天皇は怨霊になる条件を備えていました。
天智天皇は自分の皇子の大友皇子を次期天皇につけたいと考えていたのに、弟の天武天皇が大友皇子を自殺に追い込み、天武天皇が皇位についてしまったからです。

そして陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祭り上げればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。
天武天皇が敵対関係にある兄・天智に戦勝祈願をしたというのは奇妙に思えるかもしれませんが、陰陽道の考え方では十分にありえることだと思います。 

 矢田寺 皐月3 

 矢田寺 紫陽花 石仏

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[2018/06/27 08:49] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)