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春日神社 藤 淳和院 『散骨された天皇』 


京都市右京区 西院春日神社
撮影 2013年4月28日


●西院春日神社と淳和院跡

西院 春日神社 藤 

藤が咲き誇る西院春日神社。

西院春日神社の南西には高山寺があります。
門前には『淳和院跡』と刻まれた石碑が建てられてました。

高山寺 淳和院跡  

このあたりにはかつて淳和天皇が退位されたのちに住まわれた淳和院がありました。
春日神社は淳和院離宮の守護社として創建されました。

のちに淳和院は西院とも呼ばれるようになりました。
西院という地名はここからくると言われています。

●賽の河原地蔵和讃の舞台


西院は『さいん』『さい』などと読まれていました。
おそらくそのためでしょう、このあたりにあった河原は佐比河原(さいのかわら)と呼ばれ、『賽の河原地蔵和讃』の舞台だと考えられていたといいます。

『賽の河原地蔵和讃』は要約すると次のような内容です。

親よりも先に死んだ子供が賽の河原で親の供養ために石を積んで塔をつくっていると、鬼が現れて塔を壊してしまいます。
そこへ地蔵菩薩が現れて、「私を冥土の父母と思って頼りなさい」といい、子供を抱きかかえて守ってくださいます。


昔、親の供養は子供がするべき、という考え方があったようなんですね。
でも親より先に死んでしまった子供は親を供養することができません。
それで仕方なく冥土の賽の河原で石を積んで供養塔を作っているのでしょうか?

それはともかく、高山寺の御本尊は賽の河原で子供たちを救ってくれる地蔵菩薩だというわけです。
そして賽の河原地蔵には淳和院のイメージが重ねられているような気がします。

高山寺 石仏 
高山寺 本堂と地蔵菩薩

●承和の変

810年、嵯峨天皇と皇后・橘嘉智子の間には正良親王と正子内親王が生まれました。

余談となりますが、正良親王と正子内親王は同年の生まれなので双子だとも言われています。
しかし正良親王が生まれたときの年号は弘仁(810年10月20~824年2月8日)
  • 正子内親王が生まれたときの年号は大同(806年6月8日~810年10月20日)となっていて異なっています。
    また人の妊娠期間は十月十日と言われているので、
    例えば810年1月に正子内親王を出産したのち、810年12月に正良親王を出産ということもありえます。
    http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1387502.html

    823年、淳和天皇は異母兄・嵯峨天皇の譲位を受けて即位しました。
    淳和天皇は嵯峨天皇の皇女・正子内親王を皇后としました。

    833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第二皇子の正良親王に譲位しました。(仁明天皇)
    正良親王は淳和天皇と正子内親王のあいだに生まれた恒貞親王を皇太子としました。

    840年、淳和天皇が崩御したのち、842年に承和の変が起りました。

    伴健岑と橘逸勢は藤原良房が仁明天皇と妹の藤原順子との間にできた道康親王を皇太子につけたいと考えているとの情報をキャッチしました。
    「このままでは恒貞親王の身があぶない!」
    そう考えた伴健岑と橘逸勢は、皇太子を東国へ移す計画をたて、それを阿保親王へ相談しました。
    「阿保親王ならこの計画にのってくれるはず」
    伴健岑と橘逸勢はそう考えて阿保親王に相談したのだと思いますが、阿保親王はこの計画を皇太后の橘嘉智子にばらしました。
    やめておけばいいのに、橘嘉智子はこれを藤原良房に相談。
    この結果、伴健岑と橘逸勢は捕らえられて流罪となってしまいました。
    そして恒貞親王は廃太子となり、仁明天皇と藤原順子(藤原冬嗣の娘・藤原良房の同母姉)の間にできた道康親王(のちの文徳天皇)が立太子しました。

    恒貞親王の母親である正子内親王は自分の母親・橘嘉智子を激しく恨んだといいます。


    ●子の不幸は親の不幸


    梅原猛さんは聖徳太子は怨霊であると説かれました。
    怨霊とは一般的には政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊のしわざで引き起こされるとされています。
    しかし、特に聖徳太子は政治的陰謀によって不幸な死を迎えたようには思えません。
    政治的陰謀によって不幸な死を迎えたのは、聖徳太子の子孫です。
    彼らは蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したのです。
    梅原猛さんは、古は現在のような個人主義ではなく、氏族が重んじられていた。聖徳太子の子孫は繁栄することはなく、そのため聖徳太子は怨霊になったというような旨のことをおっしゃっていました。

    正直、氏族を重んじていた時代に橘嘉智子は何をやってるんだ、という感じですね。
    彼女は自分の息子の子を皇太子につけたいと考えていたのだと思いますが、そのせいで娘の子は廃太子となって娘には恨まれたばかりか
    結果、藤原氏がますます権力を持つようになり、橘氏は没落していくのです。

    ●鬼になることを怖れて散骨を遺言した淳和天皇

    それはさておき、「子の不幸は親の不幸」ということであれば、我が子・恒貞親王を廃太子とされた淳和天皇は死後、怨霊になったと考えられたのではないかと思えますね。

    淳仁天皇は火葬されて、散骨されています。

    持統天皇は火葬されていますが、実は天皇を火葬する習慣はそんなに根付かなかったのです。
    その後4代、文武、元正、元明は火葬でしたが、聖武天皇以降土葬に戻っています。
    やはり火葬で骨が灰になってしまうことを嫌ったんでしょうね。
    私も火葬された遺骨を見て、「あんなに生き生きとしていた人がこんな風になってしまうなんて」ととてもむなしい気持ちになったことがあります。

    当時は土葬が当たり前だったのに、淳和天皇が火葬されたというのは尋常ではないものを感じてしまいます。

    一説によれば淳和天皇は「自分が死後鬼と化さぬよう、骨を砕き粉々にして山中に撒くよう遺言した」とも言われています。

    これは、言い換えると、火葬すると死後鬼にならないという信仰があったということだと思います。
    淳和天皇の遺言は真実ではなく、淳和天皇が鬼=怨霊になることを怖れた藤原氏が淳和天皇を火葬にして散骨したのかもしれませんが。

    ともあれ、火葬された淳和天皇は鬼にはならず、鬼から子供を救ってくれる地蔵菩薩になったと人々は考えたのではないでしょうか。

    さいいん かすがじんじゃ ふじ


    毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/04/25 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)