三重県いなべ市 農業公園
開花状況はこちら→
http://www.inabe-nougyoukouen.com/flowering.html
●折烏帽子の形をした山 農業公園の向う側に烏帽子岳が見えています。
烏帽子岳は岐阜と三重の県境付近にあり、烏帽子岳というのは岐阜の人々が呼んだ山の名称でした。
三重の人々は熊坂山と呼んでいたそうです。
烏帽子岳というのは烏帽子に似てるからだそうです。
えーっ、どこが烏帽子に似てるの~?と烏帽子に詳しくない私は思いました。
私が思い浮かべた烏帽子は立烏帽子だったのです。
調べてみたら立烏帽子のほかにもいろんな烏帽子があるんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90#/media/File:TakatadaTaga.jpg↑ リンク先は折烏帽子を被った多賀高忠の肖像です。
なるほど、この折烏帽子になら似ていますね!
●熊坂長範 と幸若舞『烏帽子折』さてこの烏帽子岳で、熊坂長範(くまさか ちょうはん)が旅人を襲ったという伝説があります。
熊坂長範は幸若舞長範(こうわかまい/室町時代に流行った語りつきの曲舞。能、歌舞伎の原型とされています。)・『烏帽子折』に登場する人物です。(架空の人物だと考えられています。)
烏帽子岳は熊坂山とも呼ばれていたということを思い出してください。
どうもこの山が烏帽子岳とか熊坂山と呼ばれるのは、この幸若舞『烏帽子折』と関係がありそうです。
『烏帽子折』について調べてみることにしましょうー。

烏帽子折とは烏帽子を作ること、または烏帽子を作る職人さんのことをいいます。
烏帽子はもともとは絹で作られていましたが、のちに黒漆を塗った紙で作られるようになりました。
折烏帽子は折って作りますので、烏帽子を作ることや職人さんのことを烏帽子折と言ったのだと思います。
幸若舞『烏帽子折』のあらすじはこちらにありました。→
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/ebo/ebo.html
源義朝の子、牛若は鞍馬寺を出て金売吉次(の下人に扮して奥州を目指しました。
奥州をめざしたのは、奥州藤原氏の協力をえて平家討伐のチャンスをうかがうためでした。
近江の鏡の宿にやってきたとき、牛若は平家の侍たちが触れ回る声を聴きました。
「このあたりを通る16,7歳の稚児を都に連れてきたものには褒美を与える。」
平家の武者たちは牛若を探していたのでした。
平家の侍たちが「稚児を都に連れてこい」と言っていたので、牛若は元服して成人男子となろうと思い立ちました。
元服するためには烏帽子が必要なので、牛若は烏帽子折のもとを訪ねて左折の烏帽子を作ってもらいました。
左折りの烏帽子を身に着けることができるのは、源義朝の子供に限られていたのです。
元服の儀式には二人の烏帽子親が必要でした。
牛若は氏神・八幡神と、鞍馬の毘沙門天を烏帽子親として自ら元服の儀式を行い、源九郎義経と名乗りました。
美濃の青墓宿で義経の夢の中に父義朝・兄義平・朝長が現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集まっていると教えました。
待ちかまえていた義経のもとに長範が攻めてきましたが、義経は長範の八尺五寸の棒を切り落とし、長範を討ち取りました。
牛若(義経)が作ったのは左折の烏帽子とあるので、折烏帽子だったのですね。
折烏帽子は右折と左折があり、右折は烏帽子の上部を右に倒したもの、左折は左に倒したもののことだと思います。
左折の折烏帽子は源氏の大将が用いたとのことです。
烏帽子岳に熊坂長範の伝説が伝わっているのは、幸若舞『烏帽子折』に熊坂長範なる人物が登場するところから発想されたものではないでしょうか?
●陰陽に描き分けられた聖徳太子と物部守屋話は変わりますが、私は聖徳太子と物部守屋は陰陽に描き分けられていると思っています。
聖徳太子や蘇我馬子は崇仏派、物部守屋は廃仏派で、587年に戦がおこっています。
聖徳太子はこの時まだ13歳の少年でした。
物部守屋ははっきりした年齢はわかりませんが、大人であったことは確かです。
大聖将軍寺 神妙椋樹聖徳太子はこの戦の中で矢で射られそうになった時、椋の木の中に隠れて難を逃れました。
一方、物部守屋は榎木の木の上で指揮をとっていたところ、矢で射られて死亡しました。
陽・・・聖徳太子・・・崇仏派/少年/矢で射られそうになったが助かった。
陰・・・物部守屋・・・廃仏派/大人/矢で射られて死んだ。
●表と裏で違う顔を持つ山?
これと同じように、義経は陽、熊坂長範は陰として描き分けられているのかもしれません。
義経は陽の存在であるとし、義経に対する陰の存在として熊坂長範なる人物が創作されたのではないか、ということです。
陽・・・義経・・・子供/小柄
陰・・・熊坂長範・・・大人/大柄飛鳥の橘寺に二面石というのがありますね。
片方は善面、もう片方は悪面だとされています。
これと同じように、烏帽子岳も表と裏で違う顔を持つと考えられたため、
岐阜側から見たときには烏帽子岳、三重側から見たときには熊坂山と呼ばれたのではないかと思ったりします。
岐阜側から見たときの呼び名・烏帽子岳には陽=義経の山という意味合いがこめられていたのではないかと思います。
そして三重側からの呼び名・熊坂山は熊坂長範=陰の山ということなのではないでしょうか?
岐阜から見た烏帽子山は左折、三重から見た熊坂山(烏帽子山)は右折ということなのかもしれませんね!
農業公園に行く途中、鮮やかなピンク色の梅の木を見つけたので、帰りによってみました。
梅は常法寺というお寺の境内にあり、大木にたくさんの花をつけていて見事でした!
ネットで常法寺についてぐぐってみたのですが、ほとんど何も出てきませんでした~。
境内に案内板があったと思うんですが、写真に撮ってきたらよかったなあ~。
常法寺について何かご存知の方がおられましたら、教えてください!
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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