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淡路島の春景色 『淡路島は流刑地だった?』 

淡路島 八木のしだれ梅 

淡路島 八木のしだれ梅


●柿本人麻呂の旅の歌


万葉歌人の柿本人麻呂が『覊旅の歌八首』を詠んでいます。

ちょっと長くなるけど、和歌と現代語訳を書いておきますね。

①御津の崎波を恐(かしこ)み隠り江の舟に 舟公宣奴嶋尓
(御津の崎の波を恐れ、入り江の舟で・・・???)
※「 舟公宣奴嶋尓」の読み方については諸説あって定まっていません。
※御津の崎は大阪市御堂筋にある三津寺付近だとか、高麗橋付近、谷町筋にあったなど諸説ありますが、大阪にある岬であることは間違いないでしょう。
現在、三津寺・高麗橋・谷町筋あたりは海から随分遠いのですが、奈良時代にはこの付近まで海があったとされています。
※人麻呂は三津の先から舟に乗って旅に出たのでしょう。

②玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 船近づきぬ
(海女たちが海藻を刈っている敏馬(見ぬ女)という地名から、家に残してきた妻のことをしみじみと思った。
その敏馬を過ぎて、夏草が茂る野島の崎に船は近づいた。)
※敏馬は神戸市灘区岩屋付近。野島の崎は淡路島北端の岬です。

③淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
(淡路の野島が崎の浜風が妻が結んでくれた衣の紐を吹き帰している。)

④荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 海人とか見らむ旅行く我れを
(人々は藤江の浦で鱸を釣る漁師だと思っているだろうか。旅行く私のことを。)
※藤江の浦は明石市西部、淡路島の野島の北西。

⑤稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
(稲日野も行き過ぎ難く思っていたところ、心恋しい加古の島が見える。)
※稲日野は現在の加古川市から明石市あたりにかけての野のこと。印南野ともいいます。
※播磨風土記に香具山と耳梨山が争ったとき、調停のために出雲の阿菩(あぼ)の大神が立ち上がり印南国原まで来たところで争いが納まったと聞いて帰って行った、と記されています。
※大和への帰路の際に詠んだ歌だと考えられています。
※加古の島は加古川河口の三角州のことではないかともいわれています。

⑥燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
(明石海峡に船で入って行く日には、故郷から漕ぎ別れてしまうのだろうか、家のある大和のほうを見ることもなく。)
※この歌は再び往路の作とされています。

⑦天離(あまざか)夷(ひな)長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
(田舎の長い道を恋い焦がれるようにして来てみると、明石海峡より大和島が見える。)
※帰路の作とされています。

⑧笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船
(笥飯(けひ)の海の状態がいいようだ。刈った薦のように乱れて出ていくのが見える。海人の釣船が。)

※飼飯の海は淡路島西岸の慶野松原あたりのことだとされています。
※薦はマコモの古名。イネ科の多年草で、茎や葉でござが編まれました。
※笥飯の笥は食器、飯は穀物を焚いたもの、または食事のこと。
人麻呂は暖かい食卓を囲む我が家を思い出していたのかもしれませんね。
※帰路の作とされています。

慶野松原 夕日 
慶野松原 夕日

●往路の作と帰路の柵は作風が真逆


万葉集はなんで往路と帰路の歌をごちゃまぜにして並べてるんでしょうね?謎だー。
それはともかく、この8首の歌を往路の作と帰路の作にわけてみましょう。

【往路】
①御津の崎波を恐(かしこ)み隠り江の舟に 舟公宣奴嶋尓
②玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 船近づきぬ

③淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
④荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 海人とか見らむ旅行く我れを
⑥燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

【帰路】
⑤稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
⑦天離(あまざか)夷(ひな)長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
⑧笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船

往路の歌には家や妻を思うセンチメンタルな気持ちが詠まれているのに対し、帰路の歌には大和へ戻ることができる喜びが詠まれているように思えます。

明石海峡大橋 
明石海峡大橋 (ありきたりな写真だなあ~)

●淡路島は流刑地だった?

古より流刑地には島が選ばれることが多かったようです。
奈良時代、淡路島へは淳仁天皇が流刑になっていますし、早良親王は流刑となって淡路島に向かう途中、大阪府守口市付近で亡くなっています。

淡路島はイザナギ・イザナミゆかりの島なので流刑地であったはずがない、という人もいるようですが
実際に淡路島は淳仁天皇や早良親王の流刑地とされています。

また、日本書紀によると、イザナギ・イザナミがおのころ島に降り立って一番最初に産んだとされる島が淡路島ですが
満足できる島ではなかったため「吾恥(われはじ)」から「淡路」という地名になったと記されており、
淡路島は神聖視されるような島ではなかったことがわかります。

人麻呂も流罪になって淡路島に向かったため、センチメンタルな歌を詠んだのではないでしょうか。

淡路花桟敷 菜の花 
淡路花桟敷 菜の花

●人麻呂は粗末な衣を着ていた?


④番の歌で、人麻呂は「荒栲(あらたへ)の」と詠んでいます。
「荒栲の」は藤にかかる枕詞ですが、人麻呂は罪人とされたため、荒栲(織り目の荒い布)で作った粗末な衣を着ていたのではないでしょうか。
人麻呂という人物は正史には登場せず、謎の人物とされていますが、皇族の挽歌を数多く詠んでいるので、それなりの身分の人物だったと考えられます。
それなのに、海人が着るような衣を着ていることを嘆いたのではないかと思うのです。

淡路島 村上邸 雛人形 
淡路島 村上邸 雛飾り

流罪になったあと許されて帰郷した人物として和気清麻呂、阿保親王、小野篁などがいます。
人麻呂もいったん流罪となったあと許されて帰郷することになったので、帰路の歌は喜びに満ちたものになったのではなかと想像します。

しかし、人麻呂の人生は喜びに満ちたものではなかったようで、鴨島(かつて島根県益田市にあった島ですが、1026年の万寿地震で海に沈んだとされます。)で刑死させられたとする説もあります。
それについてはまたの機会に。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/03/05 00:00] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)