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勧修寺 睡蓮・花菖蒲・額紫陽花・沙羅双樹 『外祖父になっても昇格できなかった藤原高藤』 

 
京都市山科区 勧修寺
2011年6月20日撮影




勧修寺 睡蓮

①藤原高藤・胤子父娘ゆかりの寺


勧修寺の創建は900年。
醍醐天皇が右大臣藤原実方に命じて造立させたとされます。
その目的は醍醐天皇の生母・藤原胤子(実方の同母妹)の菩提を弔うためで、胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅が寺に改められたとされます。(勧修寺縁起)

※胤子が生前に創建したとする史料もあります。

勧修寺という寺名前は胤子の父・藤原高藤の諡号をとったものだということです。

勧修寺近くの民家には勧修寺を造立した藤原実方の墓があるようです。
写真を見ると亀の上に墓碑がたてられており、その後ろに墳墓があります。
藤原実方の墓から徒歩10分程度のところの鍋岡山山頂に藤原高藤の墓があるそうです。
墓碑には「贈正一位太政大臣藤原高藤墓」と記されているとのこと。

勧修寺 花菖蒲

②高藤・列子のエピソードは作り話

藤原胤子の父親は藤原高藤、母親は宮道列子で
高藤と列子にはこんな説話?が伝えられています。

高藤が南山階に鷹狩に出かけたとき、急な雨にみまわれて宮道弥益(山城国宇治郡大領)の屋敷を訪れました。
高藤は弥益の娘・列子に一目ぼれして一夜の契りを結びました。
翌日帰宅した高藤は父・良門に厳しくしかられ、鷹狩を禁止されてしまいました。
6年後、高藤は列子と再会しますが、列子は胤子という娘を連れていました。
胤子は6年前に高藤と契ったときにもうけた子供でした。
胤子は成長して宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになられました。


人間関係がややこしいですかね。まとめておきます。

系図  

説話によれば、高藤は父・良門に鷹狩を禁止されたとありますが、これは事実とは考えにくいです。
というのは良門は高藤がうまれて間もなく亡くなったとされているからです。

勧修寺 沙羅双樹

③天皇の外祖父だったのに昇格できなかった藤原高藤

①で、藤原高藤の墓碑に「贈正一位太政大臣」と記されているとお話ししましたが、これは藤原高藤の死後に「正一位」が送られたということです。
最終官位は内大臣正三位です。

高藤は父親の良門が低い地位のまま亡くなってしまったため、昇進が遅く、長い間従五位でした。
そして娘の胤子は光孝天皇の第七皇子で、臣籍降下していた源定省の妻となりました。
ところが、887年、源定省は皇族に復帰して即位したのです。(宇多天皇)
つまり高藤は天皇の義父になったわけで、このとき正五位下に昇進しています。

893年には胤子の生んだ敦仁親王が立太子して、翌894年には従三位、895年には参議となっています。
897年には敦仁親王が即位(醍醐天皇)し、高藤は正三位・中納言に。
899年には大納言となりました。

900年に危篤となり、天皇の外祖父であることから大臣昇進が検討されました。
しかし、当時左大臣には藤原時平、右大臣には菅原道真がいました。
高藤を大臣にするためには、藤原時平・菅原道真いずれかを太政大臣にする必要があったのですが、両者とも太政大臣の資格を満たしていませんでした。
そこで100年以上途絶えていた内大臣という役職を復帰させて高藤をこれに任じました。
しかし昇進後2か月で薨去し、死後に正一位・太政大臣の官位が送られたのです。

勧修寺 額紫陽花 

④藤原基経の後押しを受けて即位した宇多天皇

歴史をもう少しさかのぼってみましょう。
藤原良房という人物が娘の明子を文徳天皇に入内させ、紀静子が生んだ第一皇子の惟喬親王をおしのけて、明子が生んだ惟仁親王を生まれたばかりで立太子させました。
惟仁親王が即位して清和天皇となると、藤原良房は養女の藤原高子を清和天皇に入内させます。
そして高子が生んだ貞明親王がわずか9歳で即位して陽成天皇となります。
そして藤原高子の兄で、藤原良房の養子の藤原基経が摂政となりました。

この陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子だという説があります。
というのは、伊勢物語に在原業平と高子が駆け落ちをしたという話があるからです。
私も陽成天皇は在原業平の子ではないかと思います。
その理由については、こちらの記事をお読みください。→龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

百人一首かるた

陽成天皇は源益を殺したとして退位させられていますが、退位させられた本当の理由は彼が在原業平の子だからだと思います。

そして藤原基経は仁明天皇の第三皇子である時安親王を55歳で即位させます。(光孝天皇)
時安親王の母親は藤原沢子という人で、基経の叔母にあたる人ですね。
光孝天皇は基経の後ろ盾を得て即位したということで基経には逆らえなかったのではないかと想像します。

光孝天皇は陽成天皇の弟の貞保親王をはばかって26人の皇子皇女を臣籍降下させました。
光孝天皇が重体に陥ったとき、基経は後継者に源定省を推しました。
貞明親王は基経の妹・藤原高子の子なのですが、当時基経と高子は大変仲が悪かったようです。
(高子と在原業平の関係が気にいらなかったのでしょう。)

そしてその源定省(宇多天皇)の妻が、藤原高藤の娘だったということなんですね。

891年に藤原基経はなくなりましたが、基経の子の時平が権力をひきついで左大臣になっていました。
こういうわけで藤原高藤は天皇の外祖父となっても権力を持つことができなかったのだと思います。

このように見てみると、勧修寺は高藤の娘・胤子を弔うという目的のほか、高藤を弔うための寺という意味も持っていそうに思えます。
それで寺名を高藤の諡号である「勧修」としたのではないかと思われます。

  


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[2018/06/17 00:31] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)