京都市下京区 興正寺
興正寺は西願寺の南隣にあり、まるで西本願寺の一部のように見えます。
それもそのはず、興正寺はかつては西本願寺の脇門跡だったそうです。
門跡とは皇族や貴族が住職を務める寺院のことです。
脇門跡というのは、よくわからないのですが(汗)、准門跡ともいい、
江戸時代に門跡と同等の扱いを受けるべきと定められた寺院だということだと思います。
明治時代に西本願寺と対立して独立したとのことです。
興正寺の寺伝では、浄土真宗の開祖である親鸞が1212年に流刑地の越後から京都にもどって興正寺を創建し、
そのあと弟子の真仏上人(第2世)に寺をまかせて東国に旅立ったとしています。
(専修念仏は弾圧を受け、1207年に法然や親鸞は流罪となっていました。)
親鸞は流刑地の越後から直接東国に向かったという説が有力ですが。
興正寺という寺名は、順徳天皇から「興隆正法」の勅願を賜ったところからつけられたそうです。
「興隆正法」とは「正しい法を興し栄えさす」という意味で、聖徳太子にちなむものだとされます。
聖徳太子は仏教を厚く保護し、四天王寺など多くの寺院を建てたことで知られていますね。
六角堂京都の六角堂も聖徳太子が建てたとされていますが
比叡山を下山した親鸞がこの六角堂に籠った際、夢の中に聖徳太子が現れて
「私が女性となってあなたの妻になり、命が終わるときは極楽へ導きましょう」と言ったという話があり
親鸞と聖徳太子は関係が深いため、順徳天皇は興正寺に「興隆正法」の勅額をおくったのでしょう。
●妻帯した親鸞それにしても信者さんには申し訳ないのですが、聖徳太子が「女に生まれ変わってあなたの妻になる」なんて言うかなあ~?
親鸞は恵信尼という女性と結婚していますが、恵信尼は聖徳太子の生まれ変わりだと言いたいわけでしょ。
もしも今の時代に「ぼくちんの奥さんは聖徳太子の生まれ変わりなんだよー。」なんていう坊さんがいたら
白い眼で見られること間違いなしですよね~。
奈良時代に唐より鑑真がやってきて日本に戒律を伝えました。
戒律では僧侶が女性と関係を持つことを禁じていました。
空海や最澄の子孫はいないはずです。
ところが、開祖の親鸞が妻帯していたため、浄土真宗では肉食・妻帯・有髪が認められていました。
他の宗派の妻帯が許さるようになったのは明治5年です。
●親鸞はなぜ妻帯したのか?私は浄土真宗は真言立川流の影響を受けているのではないかと思います。
真言立川流は邪教として江戸時代に迫害を受けて消滅したとされる宗派で
ドクロに漆を塗って髑髏本尊を作り、その前で性行為を繰り返すという儀式を行ったりしていたようです。
これは性交によって男女が真言宗の本尊である大日如来と一体になることをめざす儀式だとされています。
なぜこのような儀式を行っていたのか、私の考えを書きます。
明治まで神仏は習合されて信仰されていました。
神道では神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)にわけられるとします。
そして男神が荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると神の本質=御霊とは男女双体となります。
男女が和合することは、男神である荒魂を女神である和魂と和合させることによって、御霊とし、神の怒りを鎮めて守護神に転じさせようとする儀式なのではないでしょうか。
立川流は仁寛(?―1114年)によって鎌倉時代に開かれ、南北朝時代に文観(1278-1357年)によって大成されたとされます。
『受法用心集』という書物には「真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒」と記されており、大変人気のあった宗派だったといえるでしょう。
親鸞の生没年は1173年~1263年なので、親鸞は当時人気のあった立川流を知っていたはずです。
実際に浄土真宗を開いたのは親鸞の子供たちだともいわれますが、彼らももちろん立川流を知っていたでしょう。
親鸞が妻帯したのは、立川流の影響を受けていたためではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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