奈良市雑司町 手向山八幡宮
御田植祭・・・2月3日
手向山八幡宮は東大寺の鎮守で三月堂の南にあります。
節分の日、手向山八幡宮では御田植式を行っています。
舞殿に田主が登場して鍬で田おこしをします。
田主は翁面をつけていました。
田主は丑役の子供をひきつれてさらに田を耕します。
↑ これは何なのか、ちょっとわかりません。わかる方、教えてくださいー。

翁が種籾を撒きました。
●御田植祭は節分の行事だった?奈良では各地の神社で御田植祭が行われています。
手向け山八幡宮の御田植祭は2月3日。
大和神社のお田植祭は2月10日。
廣瀬神社の砂掛け祭は2月11日。 (牛が鋤を引き回し、早乙女が田植えをするのでお田植祭だといえるでしょう。)
飛鳥坐神社のおんだ祭は2月の第1日曜日。
鏡作神社のお田植祭は2月21日に近い日曜日。
葛木倭文坐天羽雷命神社のは4月15日です。
こうしてみると、奈良のお田植祭は2月に行われることが多いですね。
でも実際に奈良で田植が行われるのは6月ごろです。
京都の伏見稲荷大社の田植祭は6月10日です。
それなのになぜ2月に御田植祭が行われているのでしょうか?
それはもしかして、御田植祭が 節分の行事だからではないでしょうか?
私がそう考えたのは、御田植祭の神事が節分の追儺式にとてもよく似ていると思ったからです。
●丑役の子供=鬼?
追儺式に登場する鬼は牛の角を生やし、虎のパンツを履いていますね。
牛は干支の丑を、虎は干支の寅をあらわしているとする説があり、私はこの説を支持しています。
12か月を干支であらわすと、丑は12月、寅は1月です。
牛の角を生やし、虎のパンツを履いている鬼は干支の丑寅、すなわち1年の変わり目をあらわしているのだと思います。
節分とは二十四節気の立春の前日のことです。
立春は二十四節気における正月なので
節分は二十四節気の大晦日ということになります。
追儺式とは鬼=1年の変わり目を追払うことで、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものなのではないでしょうか。
平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とあります。
ここに童子の像について記されていますが、八卦では童子は丑寅を表します。
つまり、牛は丑で12月、童子は艮(丑寅)で1年の変わり目を現すものだと考えられます。
門に土牛を引く童子を象った人形を立てるのは、この人形に冬の気を吸い込ませるためだと思います。
そして、人形が十分に冬の気を吸ったところで撤去するのだと考えられます。
手向山八幡宮のお田植祭では子供が牛の面を被っています。
牛は12月、子供(童子)は1年の変わり目を表しているのではないでしょうか。
また八瀬童子は鬼の子孫を称していますが、彼らは比叡山延暦寺に隷属する民で、大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子とよばれたとのことです。
ここから童子=鬼であると考えられます。
石清水八幡宮 追儺式鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいています。牛=丑(12月)、虎=寅(1月)で1年の変わり目を表している?
手向山八幡宮 御田植式牛=丑(12月)、童子=艮/丑寅(1年の変わり目をあらわす)?
●追儺式は陰、それを陽に転じさせたのがお田植祭?また追儺式では鬼に豆をぶつけて鬼を退散させますが
石清水八幡宮 追儺式御田植祭では種籾を撒いて発芽させます。
手向山八幡宮 御田植式追儺式の豆まきと御田植祭の種籾撒きもとてもよく似ていますね。
追儺式と同様、御田植祭もまた節分の行事だったのではないでしょうか?
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