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渡月橋 法輪寺 ライトアップ 『小野小町は男だった?』 

法輪寺・・・京都市西京区
嵐山花灯路・・・12月11日~12月20日

渡月橋 ライトアップ  
ライトアップされた渡月橋。とても幻想的でした。
橋の向う側には法輪寺の多宝塔が見えています。

渡月橋 法輪寺 ライトアップ  

「デジタル掛け軸」というそうで、照明の模様がゆっくりと変化していきます。
同じ模様になることはなく、毎回違った模様になるのだとか。

法輪寺 ライトアップ 
虚空蔵法輪寺 針供養 『針供養と事八日』 
↑ こちらの記事で、法輪寺の針供養をご紹介しました。
平安時代、清和天皇(850-881)が法輪寺に針供養のお堂をたてたことから、針供養が行われるようになったとされます。

私は「清和天皇が法輪寺に針供養のお堂を建てた」というのは「小野小町供養のお堂をたてた」ということではないかと考えています。
清和天皇ゆかりの寺、奈良の帯解寺にも小町の宮という小さな祠があり、清和天皇と小野小町は関係が深そうに思えます。
そして小野小町は「穴のない体」だといわれ、穴のない「待ち針」は「小町針」が訛ったものだと言われています。

小野小町は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一ですが、六歌仙とは紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)の中で名前を挙げられた六人の歌人のことを言います。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm

遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。


一般的には六歌仙とは歌のうまい6人の歌人だと捉えられていますが、仮名序の文章は決してほめているようには思えません。

高田祟史さんは六歌仙とは「怨霊である」とおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王(844-897)を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。

在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。

遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。

文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。

大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。
(その理由については、こちらの記事をお読みください。→ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。

小野小町という歌人については数種の歌が残っているだけで、どのような人物であったのかよくわかっていません。

井沢元彦さんは高田祟史さんの説を受けて「惟喬親王の乳母ではないか」とおっしゃっています。
惟喬親王は小野宮と呼ばれる広大な宮に住み、自身も「小野宮」と呼ばれていました。
ここから惟喬親王は小野氏と関係が深いと思われること。
「小町が孫」なる歌人がおり、小野小町には子供があったことなどを理由として挙げておられます。

でも私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと思います。
もちろん惟喬親王は男性です。
「小野小町は穴のない体であった」というのは、「性的に不能であった」という意味ではなく、「男だった」という意味なのではないでしょうか?

古今和歌集をには男の歌人が「女の身になって」詠んだ歌というのがたくさんあるのです。
古今和歌集仮名序を書いたとされる紀貫之自身も「土佐日記」において「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」と自身を女と偽って日記を書いています。

また『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいます。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられていますが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としています。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことです。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことなんです。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになります。
「町」とは紀氏の女性を刺しているようにも思えます。

そして紀静子は惟喬親王の母親です。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなります。
そういうことで小町というのではないでしょうか。

清和天皇は針供養のお堂を建てたといいますが、法輪寺には惟喬親王の伝説も伝わっています。
それは「惟喬親王が法輪寺にこもり虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられた。」というものです。
法輪寺は惟喬親王ゆかりの寺だったのですね~。

惟喬親王は死後御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもののこと)として惟喬神社や玄武神社などに祀られています。

清和天皇が針供養のお堂を建てたといいますが、実際にはもう少し後の時代に藤原氏が惟喬親王の怨霊を鎮めるためにお堂を建てたことを世の人々は「清和天皇の魂が針供養(小町針/惟喬親王のこと)のお堂を建てた」などと噂したのではないかと思います。
(古の人々は生きている人と死んでいる人の区別をはっきりとつけていなかったと言われます。)

法輪寺 ライトアップ 
塔百景68


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2015/12/20 15:42] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)