和歌山県岩出市 根来寺
2015年12月12日 撮影
根来寺の前身は、1130年に覚鑁が高野山に建てた伝法院でした。
1132年、鳥羽上皇の保護を得て、覚鑁はさらに高野山に大伝法院と密厳院を建立しました。
1134年、覚鑁は金剛峯寺座主になっています。
当時の高野山は非常に堕落した状態であり、覚鑁はこれを建て直そうとしました。
しかし反対派と対立し、1140年には密厳院などを焼き討ちにされてしまいます。
そこで覚鑁らは高野山を下りて、根来に移りました。
室町時代末ごろには坊舎450、寺領72万石を数えるまでとなり、1万余の僧兵を持つようになっていました。
この僧兵たちは根来衆と呼ばれ、火縄銃で武装していました。
↑ 根来寺の写真に堺祭の根来鉄砲隊の写真を合成してみた~。
16世紀ごろ、紀州では高野山・粉河寺・根来寺などの寺院勢力が力を持ち自治を行っていたようです。
朝廷や幕府は寺領において警察権や徴税権を行使することもできなかったといいます。
天下人はこのような宗教勢力に脅威を感じ、紀州征伐を行うようになります。
天正十三(1585)年、秀吉は大軍を率いて紀州征伐に向かい、根来寺を落としました。
根来寺は炎上し3日に渡って燃え続けたそうです。
塔百景64大塔(多宝塔)はこのとき焼け残ったものです。
近くで見るととても大きいのに驚きました~!
高さ40メートル、幅15メートルで、日本最大の多宝塔です。
オレンジ色の紅葉と立ち上る煙が、根来寺炎上を思い出させる風景でした。
それにしても、なぜ中世には大寺院が大きな権力を持つようになったのでしょうか?
私は寺が大規模な荘園を持つことによって、経済力を持ちえたことによるのではないかと思いますが、みなさまはどうお考えになりますか?
1580年以降、羽柴秀吉が太閤検地をおこなったことによって、荘園は消滅したとされます。
※根来寺でお会いしたカメラマンさん、撮影場所を教えてくださってありがとうございました!
いつも応援ありがとうございます♪
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