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但馬安國寺 どうだんつつじ 紅葉 『足利尊氏はなぜ六十八もの安國寺を建てたのか』 

豊岡市但東町相田 但馬安國寺
2011年11月23日 撮影

まるでドウダンツツジを拝むために造られたかのような本堂。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉3


南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏、直義兄弟は北朝・光厳院の院旨を得て、六十六国と二島に安國寺と利生塔を建設しました。
その目的は、後醍醐天皇や鎌倉幕府滅亡に至る戦の戦没者の菩提を弔うためで、臨済宗・夢窓疎石の提案を受け入れたものでした。

但馬安國寺はそうして設けられた安國寺のひとつです。
但馬の利生塔は豊岡市の金剛寺に造られたそうですが、現存していないそうです。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉2

鎌倉時代末期、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)が交互に即位するということが行われていました。(両統迭立)

1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位しました。
1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して挙兵しました。
しかし、後醍醐天皇は幕府が派遣した大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞ら討伐軍に捕られ、1332年に隠岐島へ流罪となりました。
幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。

しかし後醍醐天皇はこれくらいのことで倒幕計画をあきらめるような人ではありませんでした。
1333年、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山で再び挙兵したのです。
はじめは幕府方についていた足利高氏ですが、このときは幕府を裏切って後醍醐天皇側につき、六波羅探題を攻め落としました。
幕府の北条仲時、北条時益らは近江国の番場蓮華寺で自害しました。
光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられました。
新田義貞によって鎌倉へ追い詰められた幕府勢・北条高時以下800余人は自害して果てました。

こうして後醍醐天皇は京都に戻って建武の新政を開始します。
足利高氏は後醍醐天皇から高く評価され、天皇の諱「尊治」から尊の一字をもらって尊氏と改名しました。

ところが恩賞に対する不満などから、建武の親政はうまくいきませんでした。
足利尊氏は鎌倉で独自に恩賞を与えるなど後醍醐政権に離反します。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じます。
尊氏は新田軍を破り、京都へ進軍を始めるとともに、持明院統の光厳上皇と手を結びます。
いったんは劣勢となり九州へのがれた尊氏でしたが、再び勢力を盛り返して1336年には京都を手中にしました。
尊氏は、建武式目十七条を定めて室町幕府を成立させました
後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝をつくり、南朝と北朝のふたつの朝廷が並立するようになります。
そして1339年、後醍醐天皇は崩御されました。

六十八もの安国寺をつくるというのはすごいことです。
足利尊氏は信仰心の厚い人だったともいえますが
それだけの寺を作らなければ安心できないほど、後醍醐天皇や北条氏らの怨霊を恐れていたということなのかもしれませんね。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉 

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[2015/11/18 00:00] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)