養源院 紅葉
撮影 2009年11月15日
前回、法住寺の身代わり不動明王大祭について書きましたが、養源院はその隣(北)にあります。
養源院は1594年に豊臣秀吉の側室・淀殿の父・浅井長政と、祖父・浅井久政の二十一回忌を供養するために豊臣秀吉が建てたお寺でした。
ところが1619年に焼失し、淀殿の妹で徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願いによって再興されました。
徳川秀忠は江戸幕府第2代征夷大将軍だった人です。
以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られています。
本堂は伏見城の殿舎を移築したものとされます。

↑ 伏見城の復興天守です。
伏見城は豊臣秀吉が築城した城ですが、秀吉の死後、豊臣秀頼は大坂城に移ってしまいました。
そして五大老(末期豊臣政権の政務にあたった有力五大名)の一人だった徳川家康が留守役として伏見城に残りました。
1600年、徳川家康は会津征伐に出征しました。
このとき、徳川家康は鳥居元忠を伏見城の城代としていましたが、家康の留守を狙って宇喜多秀家、小早川秀秋らが4万の兵で伏見城を攻めました。
これに対して鳥居元忠は1800の兵で対抗しましたが、伏見城は炎上、落城してしまいました。
1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は伏見城を再建しましたが、1619年に廃城が決定し、1623年には完全に廃城となりました。
このとき、伏見殿の殿舎を養源院に移築したとされます。
養源院の廊下の天井にはなにやらしみのようなものがついていました。
これは伏見城の戦いで床についた鳥居元忠以下大勢が自刃した際の血痕だといわれています。
なんと鳥居元忠らの供養のために床を天井にしたというのです。
なんで床を天井にすることが供養になるんでしょうか?
無念の死を迎えた鳥居元忠らは死後怨霊になったと考えらえたことでしょう。
怨霊とは荒魂といってもいいと思いますが
陰陽道では荒魂は十分に祀れば人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えるそうです。
これは床に用いていたものを天井に用いることで陰陽を逆転させるという呪術なのかもしれませんね。
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[2015/11/16 00:00]
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