京都府東山区 法住寺 身代わり不動尊大祭
http://hojyuji.jp/news/742/2009年11月15日 撮影
法住寺には円仁(794-864/第3代天台座主)が造立したと伝わる不動明王像があります。
この不動明王像は人々から「身代わりさん」と呼ばれています。
身代わり不動尊大祭はこの不動明王のお祭りということなのでしょう。
法住寺は通し矢で知られる三十三間堂の向かいにあります。
平安時代には後白河法皇が法住寺に住んでおられました。
三十三間堂はこの法住寺の仏堂のひとつでした。
1184年、源(木曾)義仲が法住寺を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉するというクーデターが起きました。(法住寺合戦)
後白河法皇が命を落とされそうになったとき、第57代天台座主の明雲(※第55代天台座主も明雲)が義仲側の楯親忠敵の矢を受けて落馬し、親忠の郎党に首を斬られて亡くなりました。
法住寺では「このとき後白河は『お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた』とお泣きになられた。」と伝えています。
後白河にあたるはずだった矢を、命運が身代わりになって受けたということでしょうか。
明雲(1115-1184)は天台座主で、もとは平家の護持僧でした。
しかし1183年の平家の都落ちの際にはついていきませんでした。
『愚管抄』には『高位の僧侶のくせに戦場で殺生を行い戦死するとはけしからん』というような意味のことが記されているそうです。
ということは明雲は平家は見捨てて後白河につき、僧侶の身でありながら義仲の軍と戦ったということでしょうか?
不動明王にはもともとは造立したと伝わる第3代天台座主・円仁のイメージが重ねられていたことでしょう。
ところが法住寺合戦で第57代天台座主の明雲が死亡したことで、不動明王には明雲のイメージが新たに重ねられたのではないでしょうか。
つまり法住寺の不動明王は、明雲の魂を宿す不動明王であるともいえると思います。
命運の魂、と書きましたが、命運の怨霊と言い換えてもいいと思います。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
そんなことを考えながら、登場した鬼を見ていると、命雲の怨霊が鬼となって暴れているように見えてきました。
それにしても、なぜ明雲は天台座主という身分でありながら戦ったのでしょうか?

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