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八瀬 赦免地踊 『八瀬童子はなぜ女装しているの?』 

2015年11月11日 赦免地踊

田んぼが金色に輝く秋の八瀬にやってきました。

八瀬 稲の実り 
高野川の向うに竃風呂が見えています。

八瀬竃風呂 
672年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が背中に流れ矢を受け、この地に竃風呂を作って傷を癒したという伝説が残ります。
ここから矢背または癒背と呼ばれ、八瀬という地名になったとされます。

窯風呂

竃の中で青葉や青木を焚いたのち、塩水をかけ、竃の中にむしろをひいて中に入ったそうです。
古代のサウナですね。

都名所図絵より 八瀬竃風呂 
八瀬にはこのような竃風呂が数件あったそうで、都名所図会にも掲載されています。
竃風呂の小屋の中にはその都名所図会を板に模写したものが展示されていました。(写真は部分)

1336年、後醍醐天皇は足利尊氏と争った際、比叡山に逃れています。
このとき八瀬の人々は後醍醐天皇の駕興丁をつとめ、後醍醐天皇を無事に延暦寺までお連れしました。
その功労から後醍醐天皇は八瀬の村の年貢や諸課役などを永代免除としました。

1707年、八瀬の住民と比叡山延暦寺との間に結界に関する訴訟問題が起こりました。
このとき老中・秋元喬知(たかとも)は八瀬村に有利な裁定を下されました。
村人は秋元但馬守に感謝し、八瀬天満宮境内に秋元神社を建てて、秋元喬知を神として祀りました。
また、毎年十月十一日を秋元神社の祭礼とし、赦免地踊を奉納するようになったということです。

赦免地踊2 
12、3歳の少年が上の写真のような切子灯篭を頭に被って町を練り歩き、神社を参拝します。
ストロボ禁止だったので、灯篭しか写りませんでした~。これはこれできれいかも?

↓ 下の写真はずいぶん昔に撮影したものですが、このときはストロボ禁止ではありませんでした。

赦免地踊 
少年たちは女物の着物を着、唇には紅もさしてなかなか色っぽいんですよ~。


かつての八瀬の人々は成人しても結髪しない童形であったそうで、八瀬童子と呼ばれていました。
最澄が使役した鬼の子孫だと言われています。

そういえば鬼は酒呑童子や茨木童子など、童子と呼ばれることが多いですね。
中世には寺社に隷属する民がおり、彼らは結髪することが許されていなかったため童形であったと聞いたことがあります。
酒呑童子や茨木童子、そして八瀬童子もそのような民であったのでしょう。

酒呑童子は12,3歳で絶世の美少年だったと伝わります。
女性にモテモテでしたが、酒呑童子は全ての女性をふってしまい、ふられた女性の多くは恋煩いで死んでしまったのだとか。

茨木童子も大変な美少年で、たいへん女性にもてたそうです。
一条戻り橋で渡辺綱が美しい女性に出会いましたが、実は茨木童子が女性に化けていたのでした。

どうも鬼は美少年で女性に化けるものであったようです。
八瀬童子も鬼の子孫なので美少年ぞろいで、さらに女装した姿で祭に登場するのかも?

赦免地踊 
かわいらしい少女たちの踊りもありました。たぶん汐汲み踊だと思います。
八瀬の竃風呂に撒く汐を汲んでいるのだと思いますが、どこの浜で汐を汲んだのでしょう?
八瀬は海からとても遠いのですが。


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