10月4日はとーーーっても長い日でした。
というのは午前3時半に起きて滋賀県の白鬚神社まで日の出を見にいったからです。
白髭神社→真如堂→水尾→嵯峨野の田んぼ→清凉寺→祇王寺とこれだけ回っても時計を見るとまだ午後2時でした。
そういえば今日は北野天満宮の瑞饋祭の日だったなあ~。
と思い出し、そのあと北野天満宮の近くにある上七軒で祭の行列を見物することにしました。
↓ 芋茎などの乾物で飾られたずいき神輿
↓ 八乙女
↓ 御羽車
↓ 駕輿丁
↓ 御鉾
↓ 花笠
15世紀中ごろ、一部焼失した北野天満宮を修造した際、余った用材で七軒の茶屋をたてたのが上七軒の始まりです。
京都には祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の五花街がありますが、上七軒がもっとも古い花街です。
ウィキペディアの北野天満宮のページには次のように記されています。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE#.E6.AD.B4.E5.8F.B2より引用
現在は神社でおみくじを売ったり、舞を舞ったりする女性のことを巫女と言っていますが
古には文子のように託宣を受ける女性のことを巫女といいました。
現代でも『いたこ』と言って、死者の霊を呼び寄せ、死者の言葉を告げる女性がいますね。
ということは、多治比文子は北野天満宮の初代の巫女だといえるでしょう。
北野天満宮の巫女は少女に限られていたそうですが、それはこの託宣をうけた多治比文子が少女であったことに由来するのではないでしょうか。
ところが、文子天満宮(京都市下京区間之町通花屋町)では多治比文子は道真の乳母だとしています。
あれれ~、文子って少女じゃなかったの?
文子に託宣があったのが942年とすれば、文子が道真の乳母だったというのはありえないです。
というのは道真は845年の生まれなので、942年道真が生きていたとすれば97歳です。
文子が道真の乳母だったとすれば、少なくとも文子は13歳以上道真よりも年上だと考えられます。
すると942年、文子は110歳以上ということになりますが、平安時代にそんなに長寿の女性がいたとは考えられないからです。
ウィキペディアの文子天満宮のページには託宣があった年の記載がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%90%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE託宣があったのが942年でない可能性もあり、どちらが正しいのかわかりません。
ですが、手元に天神縁起巻ガイドブック(大阪市立博物館発行/大阪道明寺天満宮所蔵の『北野天神縁起絵扇面貼交屏風』を写真に撮り、解説を加えたもの)があり
『北野天神縁起絵扇面貼交屏風』でも文子はおかっぱ頭の少女に描かれています。
ここから、道明寺天満宮においても文子は少女であると認識されていたことがわかります。
上七軒の芸妓さんの起源は、北野天満宮で巫女をしていた少女が成熟したのちには茶立女になったものであるといわれています。
木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』 上記記事に『髑髏と漆は髑髏杯をつくるのにかかせないものであったようです。』と書きましたが、茶碗とは髑髏をイメージしたものであり、髑髏をイメージした茶碗でお茶を飲むことは、相手を圧倒する、という呪術的な意味があったのではないかと思います。
『飲む」という言葉には『飲料を摂取する』というほかに『相手を圧倒する』という意味がありますね。
つまり茶道とは芸術ではなく呪術であり、死者の言葉を託宣するという特殊能力をもった巫女はお茶を点てるのにふさわしいと考えられたのではないかと思うのです。
↓ 瑞饋祭の行列を見物する上七軒の舞妓さんたち。
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